福岡市中央区・唐人町。名前に「唐人」とありながら、実際には外国人居住がなかったのか?──そんな意外性から、地名の成り立ちと町の歩みを3分で辿ります。
語源「トフチ」とは
唐人町の語源は、もともと「門の縁(とふち)」と呼ばれ、荒津山の裾から鳥飼潟へと連なる砂堆(さたい)を指していました。地形を示す言葉として生まれ、のちに「唐」の字が当てられたと考えられます。
「唐人」の意味と記録
「唐人」は特定の国名ではなく、広く「外国人」を意味する語として用いられてきました。貝原益軒『筑前国続風土記』には高麗人(朝鮮半島の人々)の渡来が記され、昭和58年刊『当仁風土史』は、箱崎・博多・姪浜と並んで、この地にも中国商人が住みついたと伝えます。地域の学校名に残る「当仁」も、その歴史的背景を物語っています。
江戸期の町並みと町名
江戸時代、唐津街道沿いに町家が立ち並び、次の町々が形成されました。
- 浪人町(現在の唐人二丁目):浪人が暮らした町。
- 枡木屋町(現在の唐人二丁目):黒田藩の公定枡を製造した町。
- 大円寺町(現在の唐人三丁目):中級武士の宅地。
これらは1968年(昭和43年)の町区合併により、現在の「唐人町」として一本化されました。
黒田長政入国後の発展
慶長6年(1601年)に黒田長政が福岡へ入国。当初は低湿地で定住に不向きでしたが、江戸初期からの砂地堆積により町が整えられていきます。18世紀末の福博古図には、家数193軒・人口751人と記録され、東を黒門川、西を菰川、北を海、南を大濠に囲まれた「浮島」のような景観がうかがえます。
福岡城の築城と唐津街道の整備が進むにつれ、寺院や武家地、商家が配置され、とくに黒門通り沿いの寺院群は城西の防衛線として兵站機能を担いました。
商店街の成り立ちと現在
唐津街道沿いの町家のにぎわいは、やがて現在の唐人町商店街へとつながります。唐人町はヤクルト事業創業の地としても知られ、とうじん通り沿いには創業を記念する石碑が建立されています。
近年はマンション建設が進み、かつてのレトロな雰囲気は薄れつつありますが、地名「唐人町」には外国との交流と城下町の発展史が確かに刻まれています。
まとめ
「唐人町」という名は、地形語「トフチ」から始まり、外国人往来の記憶、黒田時代の城下整備、街道と商家のにぎわいを経て、現在の商店街へと受け継がれてきました。