吉塚の由来と歴史

博多区

福岡市博多区吉塚は、博多駅から鹿児島本線上り列車に乗れば、吉塚駅には2~3分ほどで到着します。

吉塚駅は福岡県庁への最寄り駅で、鹿児島本線と、吉塚を終点とする篠栗線の2路線が乗り入れています。
そのため、1日平均乗車人員でもJR九州の駅としては第5位で、2020年(令和2年)度の1日平均乗車人員は12,524人になってから、さらに増加傾向が続いております。
その吉塚駅から、吉塚駅自由通路を通り、吉塚駅東口交差点を右折して、200メートルほど先に、吉塚の由来となった、吉塚地蔵尊があります。

戦国時代の吉塚

時は戦国時代、豊臣秀吉が日本統一を狙っていた1580年代の頃、九州では商都「博多」の利権を巡って、豊後(今の大分県)を仕切っていた大友氏と、九州制覇を狙っていた薩摩(現在の鹿児島)の島津氏が激しく争っていました。
軍力に勝る島津軍は、天正6年(1578年)、豊後国の大友宗麟と、日向・耳川の戦いで勝利し、ぐんぐんと北上して、博多奪取の入り口でもあった、飯塚、糟屋郡宇美町、筑紫野市との境界に位置する三郡山(さんぐんさん)に攻めてきました。

三郡山(さんぐんさん)は(標高936m)は、若杉山から南は宝満山までの一帯を形成しており、大友氏の前線基地になっていました。
島津氏は、三郡山(さんぐんさん)の岩屋城と宝満城攻略のために、島津氏と同盟にあった、筑後の三池、蒲池、草野、星野、田尻たち士族の参陣を要請しました。
その士族の一人星野氏が、吉塚と深い関係になります。

天正14年(1586年)8月25日、島津勢からの援軍もなく孤立した星野兄弟は自害し、一族郎党300余名とともに全員玉砕という壮絶な最期を遂げました。
この戦いを「高鳥居城の戦い」とよび、戦後、宗成は島津から置き去りにされた不運な星野兄弟の義を重んじて首を丁重にあつかい、当時の那珂郡堅粕村(現在の吉塚)に手厚く埋葬したそうです。

元禄の頃(1687-1704)、平将門の娘(三女)とされる如蔵尼(にょぞうに)という尼僧(にそう)がここに地蔵堂を建て。

そして、明治26年(1893)には追悼記念碑が建てられ、現在、吉塚地蔵尊として祀られており、
星野吉実の名をとり、最初は吉実塚(よしざねづか)と呼ばれていたのが、次第に吉塚になったそうです。

吉塚の由来について動画で詳しくご紹介しています

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