福岡市随一の繁華街天神の名前の由来となった水鏡天満宮の歴史を調べてみました。
水鏡天満宮は菅原道真ゆかりの神社で天神の真ん中にあるとはおもえないほど静かな場所です。
水鏡天満宮と菅原道真
昌泰(しようたい)4年(901)菅原道真は藤原との派閥争いに敗れに京都から太宰府に左遷させられたのは有名な話です。
博多に到着した道真は、現在の薬院新川といわれる四十川で、水面に写る自分のやつれた姿を見て嘆き悲しんだそうです。
西鉄薬院駅から薬院新川に沿って天神ロフト方面へ歩いていくと、姿見橋西の橋があります。
自分の姿を写してみようと思ったのですが、無理でした(笑
ちなみに、薬院新川の以前の名前である「四十川」とは、もともと、「死時有川」と書いたのだそうで。道真が自分の顔を見て亡霊のようだと思い、「自分が死ぬのはこの川だ」と言ったことから来ているそうです。
その後、村民は中央区今泉に社(やしろ)を建て道真を祀り容身(すがたみ)神社と名づけました。
この姿見橋から、歩いて5分の所に当時の、容身(すがたみ)神社があった中央区今泉の場所は現在民家(今泉1丁目5-11)になっており、ごらんのように石碑のみが建てられています。
家の前の電柱の上に「余香館」が見える。また、屋根瓦には梅の紋があります。
現在地へ移転した理由
そして、この神社を江戸時代初期の慶長7年(1612)に福岡藩初代藩主・黒田長政は、福岡城建築の際に城の鬼門(北東=丑寅(うしとら))となる方角に強力なパワーを持つ天神を配し、霊的な防御を固めるため、福岡城の鬼門封じとして、現在地へ移し、風水的な町造りを行ったと言われ、以来この界隈は「天神町(てんじんのちょう)」と呼ばれるようになった。
昔の人は、天神町(てんじんのちょう)の「ん」を抜かして「てんじのちょう」と呼んでいました
薬院も「ん」を抜かして「やくい」です。室見は「もろみ」、藤崎は「フミサキ」と呼んでいました。
鳥居の扁額(へんがく)は福岡市天神出身の第32代総理大臣、廣田 弘毅( ひろた こうき)が11歳の時に書いたそうです。
廣田 弘毅は、貧乏な石屋のせがれから、立身出世した人です。
今の若い人は廣田 弘毅を知らないんじゃないんですかね
大濠公園の入り口横に銅像が建っています。