1918年7月7日、百道海水浴場が大々的に宣伝され、福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社)の新規事業として開場しました。
この海水浴場は、松が茂り、白い砂浜が広がり、志賀島や西公園、能古島を望む風光明媚な場所として福岡の人々に親しまれました。
当時、男女が同じ場所で泳ぐことは禁止されていたため、百道海水浴場では桟橋を挟んで東側が男子、西側が女子と区分されていました。
西日本新聞社の宣伝効果により、来場者数は増加し、海水浴場は大いに繁盛しました。
海水浴場周辺の施設には企業の広告が並び、経済効果も大きかったです。特に大くじらの広告は人気を集め、万年筆の宣伝用に設置され、実際に遊ぶことができました。
ブランコやすべり台、飛び込み台、高やぐらなどの遊戯施設も人気でした。
安全面にも配慮があり、赤十字救護テントが設置され、医師や看護師が海水浴客の安全を守りました。
現在、百道浜には水上の複合施設・マリゾンの元祖とも言える水上レストランがあり、近隣でとれた鮮魚や海産物の即席料理が楽しめます。
水上飛行場があった
1924年(大正13年)7月、大阪の木津川飛行場を拠点とする日本航空株式会社(現在のJALとは別会社)が、大阪─別府間の航空路線を延長し、百道海水浴場に水上飛行場を設置しました。
これにより、百道海岸は航空交通の一部として活用されることとなりました。
また、博多湾一周の遊覧飛行も行われ、同年9月には水上飛行場が現在の中央区港の海岸に移転しました。
百道海水浴場は新聞社主催のイベント以外にも様々な用途で活用されました。その代表的なものが林間学校です。
子供たちの健全な発達を目指す校外学習として、百道では松原内にテントを張り、教室として使用されました。
さらに、百道海水浴場は昼間だけでなく夜も賑わいました。1922年には広告電灯が設置され、演芸場が登場しました。
活動写真や博多にわか、浪花節、手品などの演芸が毎晩披露され、夜間には海でボートを楽しむ人々もいました。
昭和3年には盆踊りも始まり、昭和5年にはNHK福岡放送局が開局し、盆踊りが全国にラジオ放送されました。このイベントは周辺の町だけでなく県外からも多くの踊り手を引き付け、野外コンサートの元祖と言われるほどの賑わいとなりました。
かつては死者の供養や地域の娯楽として行われていた盆踊りも、大正時代には大衆的なイベントへと変化していきました。
ももち花火大会
1921年(大正10年)、百道海水浴場で初の花火大会が開催され、約2万人が集まりました。この花火大会では、大牟田三池や八女からも花火師が招かれ、毎年凝った仕掛けで観客を魅了しました。
この当時の花火大会は、午後8時ごろから始まり、午後11時頃まで行われ、終了後も海辺で涼むことができました。こうして、百道の花火大会は福岡の夏の風物詩として親しまれるようになりました。
しかし、昭和17年頃になると、海水浴場は戦時下の鍛錬場へと変わっていきます。第二次世界大戦中には、海洋青年団が結成され、海水浴場で青少年の訓練が行われました。百道海水浴場はその主要な会場の一つとなり、数千人の少年たちが海での訓練に励みました。
また、戦時中の1942年9月24日には、百道海水浴場の南側で西日本新聞社主催の大東亜建設大博覧会が開催されました。約2万坪の敷地に14のパビリオンやパノラマなどの展示場が作られ、国家的な軍事啓蒙の博覧会として行われました。
時代が流れ、昭和50年代に入ると、百道周辺の景観も変化していきました。
西南学院大学の敷地が拡大され、海沿いには百道中学校、百道小学校が完成し、田畑は宅地化され、百道橋も架けられました。