市内にはおめでたい名前の付いた橋が3ヶ所あるのですが、ご存知でしたか?
1つは、ここの弁天橋(上記画像)、須崎と中洲を結ぶ大黒橋、それと戦後は朝鮮人引揚者がバラックを建てていた石堂川にかかる「えびす橋」です。
大黒橋と弁天橋
呉服町からだと昭和通りを歩き、東中島橋を右折して博多川沿いに海側へ歩いていくと大黒橋があります。
昔、中洲の中心地と言えば、大黒橋のたもとにあった浜新地(現在の中島町)でした。
元々、寛政年間に黒田藩によってここに船入場築造のため埋立されてできました。
そして文政3年に至り那珂郡が、藩の御船方から北の新地を借り受けて埋立を行っています。
それからしばらくは空き地のままでしたが、天保5年ここ(現在の中島公園)に一大遊園地が作られて、7代目市川團十郎が江戸役者(上記画像)を率いて興行を行っています。
明治7年になって浜新地に博多最初の機械精米所ができて、年々人家が増加し、明治42年に大規模な埋立工事を始め、明治44年11月に、西の対岸須崎土手町から那珂川に弁天橋、浜新地から上洲崎町へ通ずる大黒橋が博多川に架設されました。
こうして浜新地は急速に栄えて料理屋「岩永」、元祖水炊き「水月」、その他待合、料理屋、飲食店、風呂屋などが続々建て込んだのです。
空襲で焼失して、焼け野原となっていましたが、復興と共に、料亭「老松」を始めどんどん人家が建て込んでいきました。