西中島橋と桝形門

中央区

黒田長政が福岡を築いてから博多から福岡へ入るには、西中島橋(にしなかしまばし)を渡り、桝形門で身分を改められた後、福岡入りを許されていました。

当時の西中島橋は、(長さ約130メートル、幅9メートルの長い木橋(もくきょう)で福岡と博多とを結ぶために那珂川を隔てて架かっていました。

橋の付け根の三方を石垣で囲まれた桝形門があり、南北2つの門に検問所があって通行人を改めていました。

人別に問題があれば、牢屋へ軟禁されます。
桝形門の北側に牢屋があり、今の天神明星ビル付近ですね。ここは牢屋町(ろうやのちょう)とも呼ばれていました。
牢屋は後に枡小屋町(ますこやまち)現在の中央区唐人町に移り、乙丑の獄による罪人の処刑場になりました。後に結核予防センターとなり、その後は・こども病院があった所)です。

当時は、西中島橋を渡ってすぐの横筋で、橋口にあるところから「橋口町(はしぐちまち)」という町名でした。

長政は福岡城を築き、、城内には譜代の重臣を、次に大身、中士、下士の順に放射状に配置し、現在の赤煉瓦の歴史資料館、福岡郵便局、日本銀行がある昭和通り沿いは橋口筋から現在の大手門まで1戸が1000坪以上もある大身屋敷を置いていました。

当時の橋は敵に攻められた時に簡単に壊せるよう、木造のお粗末な構造でした。

その後、こんにちまで何度が修改築されて、平成15年(2003年)に現在の橋が完成しています。
橋の真ん中にはベンチがあり、仙厓(せんがい)和尚の絵がレリーフとして埋め込まれています。
仙厓和尚説明板

博多区にある聖福寺の123世住職で、画家としても有名な仙厓(せんがい)和尚が書いた掛け軸には、博多と福岡という2つの文化に関わってきた西中島橋と桝形門の姿が描かれています。

ベンチにこしかけ、当時の往来を想像してみるのもいいかなあと思います。

廃藩置県後に武士の時代は終わり、明治8年(1875年)になり新県庁舎の建築開始と共に桝形門は撤去されました

桝形門の跡は現在の西鉄イン福岡の北側付近になり、橋から浜側にかけて福岡と博多を隔てて残っていた垣根の石垣も明治21年(1888年)に撤去されました。

防衛石垣跡
この筋には明治10年(1877年)第17国立銀行(福銀の前身)の洋風な建物がたったが、明治37年(1904)の火事で全焼、その跡地には1909年に赤レンガ造りのモダンな日本生命の建物が完成。さらに、福岡郵便局、初期の福岡日々新聞社(西日本新聞の前身)、福陵新報社もこの町にありました。

桝形門から橋口町(現在のフタタ、天神ビルがある交差点付近)の筋は昭和通りを挟んで、福岡市赤煉瓦文化館や紙よ渡辺ビルがある南側は天神1丁目、福岡郵便局や日本銀行が建っている北側は天神4丁目となっています。

西中島橋から那珂川に沿って、市民会館や県立美術館、須崎公園へ進む縦筋、現在のJA福岡会館がある一帯は、明治20年ごろまで須崎土手町(すざきどてのちょう)と呼ばれて、明治39年は福岡物産陳列場(写真有)が建ち、そのあとは捕虜収容所にもなっていました。

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