誰が軍隊に石を投げたのか!と一人の軍人が鬼の形相で突然侵入してきた。横暴な軍隊の強権に脅える学生、毅然と立ち向かった館長とは?現役学生も知らない明治の修猷館投石事件を深堀りしました。
当時の軍国主義の時代背景を考えれば、この投石事件は事実が歪曲されたり、隠されたりしていると思います。以来、この事件は修猷館史の表舞台にも登場することなく現在の学生も知らない歴史の一コマになったようです。
修猷館投石事件の発端
今から130年前のこと、明治24年(1891年)3月24日昼休み中に、ひとりの軍人が鬼の形相(ぎょうそう)をして、突然、修猷館内に入ってきたことにより、当時の福岡市はおろか中央政界を巻き込む大事件に発展したのです。
地図を見てください。
福岡城の真ん前の大名町堀端で、元平和台球状前にあった、ヤナセ自動車のモータープールがあった場所でといえば、昭和生まれの方はわかりやすいでしょうか?現在の中央区赤坂1丁目の三井住友海上福岡赤坂ビルが建っている場所に開講した修猷館ですが、目と鼻の先にある当時福岡城内跡地 (現・舞鶴公園陸上競技場)には陸軍の歩兵第24連隊の兵営がありました。
現在は、福岡市中央区三井住友海上福岡赤坂ビルに修猷館跡だったことを知らせる案内碑が置かれています。
このように、修猷館と軍隊は目と鼻の先にあり、陸軍歩兵部隊が演習などで修猷館の近辺を行進することは日常的な光景であったことを知っておいてください。
そして、中央政界をも巻き込んだ修猷館投石事件のドラマが始まったのです。