現在の上呉服町の旧町名を西門町と呼んでいました。
現在の石堂川(御笠川)にかかる西門橋を渡れば聖福寺の西の門があったところから西門町になりました。
石堂川下流に架かる西門橋の東ぎわ松原は、藩公認の芝居地で仮設の芝居小屋を建て、歌舞伎を上演しています。
それを西門芝居といい、明治になって、常設芝居所(しばいどこ)ができるまで、しばしば上演されていました。
大正時代の名力士・福柳はこの町の出身で、美男と小気味のよい取り口で関脇まで上った人気者でしたが、大正15年に巡業中にふぐ中毒で急死し、相撲ファンを落胆させました。34歳でした。
空襲の被害を受けずに、町幅も昔のままで戦前からの店構えも多い。町名改正で西門町の名は消えて、上呉服町となっています。
西門橋渡ってすぐの所に、当時の橋の石碑なんでしょうか建っています。
そしてすぐの西教寺の西門を過ぎると三叉路の左にある建物が大正2年創業の老舗の蒲鉾店・西門蒲鉾です。
玄関前に懐かし手押しポンプがあります。通りすがりの中学生に手伝ってもらうとホラ~冷たい水が出てきます。
この三叉路を左に直進すれば、西教寺や吉武酒店に行きます。
西門蒲鉾の玄関前の通りを数十メートル歩くと古民家があって、右側に山笠用品が揃う昭和2年(1927年)創業の「山下商店」があります。
この西門通りですが、博多七小路の中小路ともいわれ、見れば少し上り坂になっているのがわかると思います。
これを上りきると、はるか西に糸島の筑紫富士が(可也山 (かやさん) -)が見えていたので、この坂を富士見坂といったそうです。
西門通りをもう少し先に進めば疎開道路が横切る駐車場の左に「葛城地蔵尊」があります。
疫病退散のご利益や、町内で起きた不思議な出来事に因んで祀られるようになったとのことです。現在でも、地域のお守り所として地元の人々に親しまれているとのことです。
西門町の地図
このページで紹介している西門町の箇所はここです。