福岡市の難読地名「馬出」の歴史を紹介しましょう。
馬が出ると書いて「まいだし」と呼びます。
うん? まいだし?
どういけばいいの?
どこにある?
と、福岡市でも馴染みの薄い町かもしれません
馬出には九州大学医学部および附属病院や色々な歴史遺産があり、近くの東公園には、福岡の政治の中心となる福岡県庁がある一方で、旧唐津街道沿いに発展した古い商家とアジア系の店舗やコリアン在日地区が交錯するカオスな空間を抱えたエリアです。
聖なるものと俗なるものが重層的に織り込まれている変わった名前がついたエリア。
その馬出の地層に深く入っていこうと思います。
まず、馬出とは変わった地名ですが、これは近くの筥崎宮の神輿が博多夷社(現在の東公園にある十日恵比寿神社)へ下向する時、筥崎宮から供奉(ぐぶ)の人が乗る馬を差し出したことに由来するとあります。
博多夷社については、念のために筥崎宮に確認しておりますので間違いないと思います。
筥崎宮本殿から、博多夷社まで約1.3キロを実際に歩いてみると、約18分ほどで到着しますが、当時は舗装されていない唐津街道の松林を抜けて、祭礼用の荷物を馬に乗せお供しなければならなかった大変さがよくわかります。
秀吉、利休と馬出
馬出は筥崎宮の西にあり、古くは那珂郡馬出村で、金平村ととも千代村の一部になり、江戸時代においては、この辺りは箱崎宮から、千代の石堂川(現在三笠側)までまでうっそうとした松林が続いていました。
この白砂青松の松林の中を北九州市小倉区の常盤橋を起点とした唐津街道が赤間を抜けて箱崎から馬出村に通るようになると、筥崎宮や崇福寺の参詣に訪れる人の往来ができていき、秀吉とゆかりの深い戦国武将が往返した軍事古道にもなっていきました。
また秀吉も現在の九大医学部構内にある利休釜掛けの松原で、千利休や神屋宗湛ら共に、茶会を開いて休憩したという遺跡があり、また福岡城下を通過するため、福岡藩主が頻繁にしようした記録が残り、福岡城から小倉へ至る道筋となっていきました。
博多の伝統技術
筥崎宮の門前町として人の往来が活発になっていきだすと、馬出には「筥崎宮」の神具、三宝などをつくる博多曲物屋ができ一時は数十軒もの曲げ物屋ができるほど、江戸時代には貝原益軒の「筑前国続 風土記」で紹介されるほどとなり現在では、三百年の伝統を誇る博多の文化財の一つにもなっています。
曲げ物とは、薄くした樹木を丸く曲げて形を作り、底を付けた容器のことを言います。
筥崎宮の祭具として使われることが多かった木工芸品です。
飯櫃(めしびつ)、茶びつ、膳など、 木目が平行に通った杉の板でつくり、板の合わせ目は、くぎなどの金属を一切使わず、長細い桜の皮で縫うようにつなぎ合わせるため、非常に軽く、ほんのりと薫、木の香りがより一層ご飯を美味しく引き立てます。
子供の成長を祝うお膳すわりの俗称ポッポ膳は、白木に泥絵の具で松竹梅と鶴亀を描いた祝い膳で七五三のお祝い用として子供たちの健やかな成長を願って使われています。
他にも茶道具、蒸し籠、飯櫃、折箱など日用品も多くつくられています。中でも鶴の絵は「幸福が外に逃げて行かないように」とという思いを込めて、あえて逆さまに絵が唐ています。
博多駅ができたころ、駅弁の容器として、とっても需要があり、明治10年ごろ馬出には10数件の曲げ物屋があったそうです。
プラスチック容器など代替品の出現で曲げ物の需要が激減していき、現在では、柴田徳商店だけが残り、福岡市無形文化財の指定を受け、博多曲物の職 人技として広く市民に親しまれ、愛され続けています。
糟屋郡と那珂郡との群境碑
筥崎宮前にある永田パンと天井桟敷の間には
旧唐津街道の名残を伝える糟屋郡と那珂郡との群境を示す石碑が建っています。石碑には文化元年(1804年)と刻んであり200年以上のものがよく撤去されずに残っていたものです。この石碑までが箱崎の堺で、横のレストラン「天井桟敷」から馬出5丁目になっています。
こうして筥崎宮による門前町としての恩恵を受けて、馬出に人家も増えていき、明治22年の人口は1396人、戸数281軒となり、堅粕村と合併して千代村となります。
この唐津街道は、現在では「福岡直方線(県道21号線)」といわれ
歩いてみるとわかりますが、このエリアは1945年(昭和20年)太平洋戦争末期の福岡大空襲の被害を受けていませんので、所々に明治、大正、昭和のロマンが残る民家や商家を見ることができます。
福岡市の中でも箱崎、馬出、千代は戦前建築物が多く集住する最大のエリアだと思います。
レトロな建築物の見学が好きな方にはおススメのエリアです。
天井桟敷のお店から馬出5丁目を歩いていますが、ごらんのようにレトロな建物を見ることができます。
三勝うどんの店内を入れば有名人のサイン色紙が並んでいるだけに、デカ盛り蕎麦やかつ丼は値段も安くて旨いです。
それはどうでもよいとして、三勝さんの路地を入っていくと妙徳禅寺というお寺があります。
妙徳禅寺
このお寺は聖福寺の開祖、栄西が1191年に宋から帰国した後、聖福寺が建てられる間住んでいたと『筑前国続風土記』に記されています。
なので、今から830年前に建てられた曹洞宗(そうとうしゅう)のお寺です。
ゴンちゃんが行ったときは、子供さんが打ち水で涼をとりながら、おばあさんと一緒に境内をキレイに清掃されていました。
しばし、慈悲観音菩薩様の姿の美しさにうっとりして見とれていました。 また、日切地蔵堂は線香の香りが絶えず、「空と風と光のお地蔵様」がありました。
これは平成18年(2006)の海の中道大橋での市職員の飲酒運転事故で亡くなった3人の子供たちの事故を風化させまいと有志400人以上の募金により建立されました。
供養する地蔵には3人の子供たちの戒名に空・風・光の文字が入っており、今年も高島市長ら地元住民、関係者により供養が営まれました。
お寺を出て、馬出4587号線を渡り、再び唐津街道に入っていきます。
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