福岡市の忘れられた疫病史:120年前のコレラ大流行

出来事

今から120年前の福岡市は、コレラの発生で死んだように寂れていました。どうしてそうなったのでしょうか?今の福岡県民にとっては無縁の話なのでしょうか?福岡市が近代化へと進み始めた時期と平行して、死の町へと変わっていった当時の日常を振り返りますので、最後までご視聴ください。

明治35年(1902年)6月29日、福岡市寺中(じちゅうまち)町(現在の御供所町・呉服町付近)でコレラが発生しました。8月19日までに、市内の患者数は53人に達し、そのうち31人が亡くなりました。

さらに、福岡県全域にも病気が蔓延し、患者数は858人に達し、469人が死亡しました。

国を挙げての欧米列強に追いつき、追い越せという近代化の進行中に、地方都市の町づくり、特に上下水道や道路などの生活環境整備はまったく手付かずでした。

県内の各都市も旧藩時代そのままの粗末な衛生施設で明治の末期を迎え、これが疫病発生の原因となりました。

たとえば、明治23年(1890年)6月から11月にかけて、福岡市内だけでもコレラ患者が258人、そのうち203人が死亡しました。赤痢で患者は630人、うち149人が死亡しました。明治28年の初夏には、福岡県下全域でコレラ患者が404人、死亡者は237人にのぼりました。

さらに、明治40年(1907年)8月から11月にかけても、県下でコレラ患者が1253人に上り、879人が死亡するという厳しい記録が残っています。

明治時代:福岡県における防疫と生活の挑戦

明治35年のコレラ流行時、福岡市須崎にあった福岡監獄所(現在の刑務所)でも感染が広がり、服役者800人余りのうち60人が感染し、12人が死亡しました。刑務所では通常、毎日のように釈放者がいますが、流行期には感染の恐れがあるとして釈放された10数人の氏名を新聞広告で公表し、検疫を呼びかけるなどの非常措置を講じました。これは、受刑者の人権よりも人命と伝染病防止を優先した措置でした。また、福岡市柳町一組では、25戸中17戸が患者を出し、2戸は一家全滅するほどでした。感染していない8戸は隔離され、逃げ出すことができず、全滅した2戸の遺体処理も遅れ、死臭が漂う中で生き延びていました。

コレラが流行するたびに、福岡県内では集会や興行、海水浴などが禁止され、町や村は灯りが消え、寂れていきました。住民は疫病神が去るのをじっと待つ恐怖の中で生活しました。特に流行は夏に多く、博多山笠を含む夏祭りも中止になることが多かったです。県民はコレラを「トンコロリ」と呼び、恐れていました。現代ではコレラを遠い昔の病と思いがちですが、実は世界的に感染が増加しています。

当時、国は水際作戦を徹底して対策を講じていましたが、防疫体制は明治時代の基準で非常に基本的なものでした。東南アジアから船で入国するコレラ患者は速やかに感染を広げ、多くの命を奪いました。福岡県は防波堤の役割を果たし、県民の犠牲をもって全国的な拡大を防ぎました。

大流行の繰り返しの原因は、時代遅れの不完全な衛生施設にあると言えます。明治32年の新聞記事によると、福岡や北九州の町々ではビルが立ち始め、市内電車が走る近代的な様相を呈しながらも、道路は未舗装で雨が降ると溢れ出す水が家の床下に流れ込み、道が海のようになり、買い物にも出られない状態でした。上下水道の整備はまだ夢のまた夢で、飲料水は全て井戸水に依存していました。そして、この井戸水が問題の一つでした。

明治時代の衛生状況と清浄な水への憧れ

福岡市では日清戦争後、人口が急増し、中心街では家屋が密集しました。下水道の不備により、人家の排泄物が井戸水に浸透していました。

県庁が市内の井戸8300余りのうち4530か所で水質検査を行ったところ、3218か所が「不良」と判定されました。特に博多部(現・博多区)は、2926か所中わずか378か所のみが「良」と認定され、そのほとんどが汚染されていました。福岡刑務所でも、所内の井戸からコレラ菌が検出され、当時の町が生活に適さない場所であったことが明らかになりました。

良質な水への需要が高まり、余裕のある市民は毎日、人夫によって売り歩かれる水を購入していました。この売り水は「松源水」と呼ばれ、元那珂郡千代村(現・博多区千代町)の松林の井戸から汲まれていました。福岡市の管理下で、水売り人は「株」という権利を持ち、登録業者は30人に限られていました。彼らはのぼりを立て、荷車に12個の水桶を積み、一升(1.8リットル)一厘で水を売り歩いており、年間約7000円の売上があったといいます。水売りの権利が一株100円で取引されていた記録もあり、有利な商売であったようです。

千代の松原から湧出する「松源水」は名水として知られ、天正15年(1598年)には秀吉が九州遠征の際、この地で千利休、神屋宗湛らと共に茶の湯の会を催しました。利休はこの松に鎖をかけ、雲龍の小釜を掛けて、落ち葉を集めて火を起こし、松原水でお湯を沸かしてお茶を立てました。千利休釜掛けの松は、九州大学医学部構内に石碑が建っています。

利休はこの松に鎖をかけて、利休自慢の雲龍の小釜をかけて、落ち葉を拾い集めて、火をおこし、この松原水でお湯を沸かしてお茶を立てていました。

千利休釜掛けの松は九州大学医学部構内に石碑が建っています。


また、地下鉄箱崎線千代県庁口駅7番出口付近にある松原水の井戸跡にある案内板には、次のように書かれています。

ちょっと読んでみますね

「明治初期、まだ井戸水を利用していたころ、博多部の井戸は水質に恵まれず、そのため飲料水は当時の那珂郡千代村一帯(現在の博多区千代付近)に続く松林(千代松原)の砂地から汲む井戸水を運んでまかなわれていた。これも次第に建て込む人家の家庭汚水で利用できなくなってきた。

そこで明治二九(一八九六)年 福岡市は、飲料水確保のため千代村堅粕(現在の博多区東公園)の東公園内の国有地約一アールを年間一円八銭で借り受け、工費五〇円で市設の井戸を掘った。これが「松原水」の起こりである。

明治三四(一九〇一)年には、福岡市による「市設井戸取締規程」が定められている。井戸には看守を置く事、汲む者は給水許可証を携帯すること、料金は一石(一八〇リットル)に十銭宛などと細かく規定して本格的に管理された。

このようにして、業者も水桶一二個積んだ大八車をガラガラ引いて、戸別に配達したため、上水道通水(大正一二年)まで、松原水売りは博多の風物詩であった。

なお、明治三三(一九〇〇)年 皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が来福の際、飲料水として使われ、記念の石碑が傍に建っている。」

と書かれています。
案内板を要約すると明治初期には千代周辺は松林でその砂地にあった井戸から水を汲んでいたけれども人が住み始めて水質が悪化して使えなくなったため福岡市の主導で東公園のこの場所に井戸が掘られ、これが博多の水のライフラインになっていたのですね。

明治から大正へ、市民の要望と政治優先の狭間で

ところで、続発するコレラや汚染された井戸水に対し悲鳴を上げた市民は、「上水道を作ってくれ」と要求し、その声を市や県に届けるために、福博商工会が先頭に立ちました。

明治36年のコレラ流行後、彼らは「市債を募集してでも水道敷設を急げ」と申し入れました。県や市もこれを重要な施策と捉え、予算を組んで真剣に取り組みました。

しかし、明治時代ならではの問題が発生しました。60万円余りの国庫補助金が、どうしても許可されませんでした。その理由は、これらの資金が軍備拡張に使用され、他に手が回らないということでした。県や市は市民の生死に関わる問題として、懸命に陳情を続けましたが、全く受け入れられませんでした。

ついに、5代の市長を経て、大正12年3月に初の上水道用ダムが曲渕に建設され、22年の時間を経て市民の悲願が実現しました。

それにしても、非常に遅い対応でした。市民の生活よりも軍備拡充を優先した、政治の不在を物語る歴史がありました。しかし、今でも福岡市の水資源には安心できる状態ではありません。

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福岡県各地を歩いて歴史の一歩奥へ掘り下げて史実なりを紹介しています。歴史に興味があって始めた仕事も気が付けばかなりの年数が経っており、それならとブログや動画にして、後世の何らかの役に立てればと厚かましくも思っています。

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