福岡市のシーサイドももちは、中央区地行浜と早良区百道浜に広がる埋立地。モダンな都市景観の中に、元寇から江戸時代、そして明治・現代までの重厚な歴史が息づいています。本記事では、百道の知られざる歴史と現在の魅力をたどります。
百道の名が歴史に登場したのは鎌倉時代の元寇から
奈良・平安時代の文献には百道(ももち)の名は登場していませんでした。しかし、百道が日本の歴史に現れるのは鎌倉時代、文永11年(1274)の元寇「文永の役」です。
フビライ・ハン率いる元軍が博多湾に侵攻したこの戦いでは、百道原でも激戦が展開されました。福田兼重(日向国の武士)や日田永基(豊後国の武士)らが元軍と対峙し、その地に勇猛な戦いの痕跡を残しています。
石築地(元寇防塁)の建設と弘安の役
文永の役後、鎌倉幕府は再侵攻に備えて、今津から香椎までの約20kmにわたって「石築地(元寇防塁)」を築きました。そして、弘安4年(1281)の「弘安の役」で、再び元軍が襲来。
このとき日本側は元寇防塁を活かして防戦し、大規模な侵攻を退けることに成功します。現在も百道、西新、今津などでは防塁の痕跡を見ることができ、西南学院大学構内にはその保存・公開エリアがあります。
※元寇防塁は昭和6年に国の史跡に指定され、今も訪問が可能です。
江戸時代:百道松原と紅葉八幡宮の発展
江戸時代初期の1618年(元和4年)、黒田長政の命で百道の浜辺に松が植えられ、景勝地「百道松原」として発展します。
この松原の中には紅葉八幡宮が位置し、のちに高取へ移転。百道や西新地域は寺社や武家屋敷が並ぶ、風光明媚かつ文化的な町へと変化しました。
町の拡大と共に「大西」「中西」「西町」といった地名が生まれ、百道の姿はより多様に、そして豊かになっていきました。
明治以降の変遷:国有林化と修猷館の移転
明治時代に入ると、百道松原は国有林に指定され、1899年頃には民間へ払い下げられます。
注目すべきは、明治33年(1900)に伝統校・修猷館中学が西新に移転してきたことです。この出来事は、学生や教育関係者を中心に地域のにぎわいを再び高めました。
修猷館の敷地は旧武家屋敷跡で、地元旧士族たちが用地の提供に協力したという逸話も残ります。
同校からは中村天風(思想家)、広田弘毅(元首相)、夢野久作(作家)、緒方竹虎(政治家)、神田紅(講談師)など多くの著名人が輩出されています。
現代のシーサイドももち:歴史と未来が融合する場所
現代の「シーサイドももち」は、福岡タワーや福岡市博物館、ももち浜海浜公園などが整備された都市型ビーチリゾート。
美しい街並みや海岸線は、近代的でありながらも、百道の歴史を感じさせる静かな魅力をたたえています。元寇防塁の史跡や修猷館などを巡りながら、古代と現代が調和する風景を楽しむことができます。
まとめ:百道の物語をたどる歴史散歩へ
百道・ももちは単なる埋立地ではなく、鎌倉時代から近代、そして現在まで、幾多の人間ドラマや歴史が積み重ねられた場所です。
歴史を知って歩くことで、街の景色はより立体的に、そして奥深く感じられるはず。ぜひYouTubeでの百道の歴史紹介動画も合わせてご覧ください。