福岡の近代化を語る上で、「石炭」というエネルギー資源の存在は欠かせません。
今回は、粕屋郡志免町に現存する国指定重要文化財「志免鉱業所竪坑櫓(たてこうやぐら)」を通じて、戦前から戦中にかけての福岡と海軍の深いつながりを紐解きます。
炭鉱の記憶を色濃く残す志免町の魅力とともに、今なお東洋一と称された竪坑櫓が語りかけてくる歴史の声に耳を傾けてみましょう。
志免町の歴史と地名の由来
志免町の地名は、隣町の宇美町にある宇美八幡宮の祭礼で使われる「注連縄(しめなわ)」を作った土地「キド」が起源とされます。
明治22年、田富村・吉原村・志免村などの合併で「志免村」が誕生し、昭和14年に町制施行により「志免町」となりました。
地名の中には「田」「坪」「水」など農業に由来するものや、「佛」「柩」「塚」など古墳文化を感じさせる言葉も多く、実際に七夕池古墳や亀山石棺なども発掘されています。
志免町の古代からの足跡
志免町には古代の伝承や神社も点在しています。
特に南里にある王子八幡宮や竈門神社は、応神天皇(神功皇后の御子)を祀り、宇美八幡宮への「出産の道中」伝説に登場します。
この道中には、若八幡宮~日守神社~駕輿八幡宮~宇美八幡宮という一連の信仰ルートがあり、志免町はその中間地点にあたります。
志免鉱業所竪坑櫓とは|「東洋一」と称された巨大櫓
志免町が注目を集めた理由のひとつが、国指定重要文化財・志免鉱業所竪坑櫓の存在です。
この櫓は、太平洋戦争中の1943年に建設された、高さ47.6メートル(15階相当)の塔櫓巻型で、東洋一とも称された巨大な炭鉱施設です。
最上部には1000馬力の巻き揚げ機があり、地下430mから石炭や作業員を運び上げていました。
当時は最新技術である**ハンマーコップ型(ドイツ式)**を参考に設計され、日本における近代土木建築の象徴とも言える存在です。
竪坑櫓と海軍燃料廠|国直轄の炭鉱だった
志免鉱業所は、日本唯一の国営炭鉱として、海軍が直轄で管理していた施設です。
海軍が軍艦の燃料として使う石炭を確保するために建設され、「第四海軍燃料廠 採鉱課」が設計・施工に関与しました。
設計を担当したのは、海軍技術大佐の猪俣昇氏。彼はヨーロッパを視察中に見たドイツの技術を持ち帰り、日本において鉄筋コンクリート構造の高層竪坑櫓を実現させました。
生活と背中合わせの過酷な労働
志免鉱業所では、良質で高カロリーの無煙炭が採掘され、軍艦や兵器工場に供給されていました。
「東洋一」と讃えられた櫓でしたが、そこで働く人々の生活は厳しく、戦時下の物資不足や過酷な労働環境の中で日々命を懸けて石炭を掘り続けていたことが想像されます。
志免鉱業所の価値|解体寸前から文化遺産へ
戦後、閉山とともに一時は解体の危機に瀕していた竪坑櫓ですが、
その建築技術や歴史的背景から近代化遺産として再評価され、現在では文化庁指定の重要文化財となっています。
世界でもこの形式の竪坑櫓が現存するのは、ベルギー、中国、そして志免町の3ヶ所のみ。
志免町は、世界に誇る貴重な炭鉱遺産を今に伝える数少ない地域です。
竪坑櫓を動画で体感|志免町の土木遺産
竪坑櫓の歴史やその構造について、動画でわかりやすく紹介しています。
当時の雰囲気や規模感を感じ取れるので、ぜひご覧ください。