久重は寛政11年(1799年)、筑後久留米の通町十丁目の城下町で、鼈甲細工を営む弥右衛門の長男として生まれました。
幼いころから、父親の細工場に座り込み、仕事をのぞき込んでいた久重は、小刀を唯一のおもちゃとして持っていました。特にからくりに対する才能が溢れており、朝夕寝食を忘れるほどからくりの考案に熱中していました。
9歳の時、寺小屋で友達がスズリ箱にいたずらをすると、久重はすぐに箱に細工を加えました。この細工は回転錠に似た仕掛けで、引き出しのツマミをねじると、悪戯をしようとする者が箱のふたを開けようとしても開かないようになっていました。
久留米絣の進歩発展にも貢献した
これが久重の最初の独創品でした。その後数年間、箱細工に熱中し、人を驚かせることで喜びを感じていました。文化10年(1813年)、15歳の時には、久留米絣の発案者である井上伝に頼まれ、久留米絣の絵形組み方と織機を工夫発明し、久留米絣の進歩発展に貢献しました。
22歳になると、空気ポンプの機構を用いて作動する一種の空気銃を製作しました。文政年間(1818年~1830年)には、近くの五穀神社の祭礼や御繁昌の際に水からくりを仕掛けて、人形が舞踊する様子や笛を吹く「からくり芝居」を催し、町の人々の人気を集めました。
からくり義衛門と呼ばれる
中でも特に人気だったのは「弓を射る童子」、「八ッ橋独楽(こま)のたわむれ」、「茶くみ童子」などでした。例えば、身長約60センチの人形が茶器を持って客の前に現れ、客がその茶を飲み終えて茶器を返すと、人形はまた引き下がりました。また、鎧や兜に身を固めた人形が7本の矢を的に命中させるなど、これらはすべて水力、重力、テコ、弾力の応用によるものでしたが、見物人はこれを「バテレン(ポルトガル人)の魔術に違いない」と驚嘆し、不思議がっていました。
人々からは「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになり、その名は広まっていきました。この時期、外国ではフルトンが蒸気船を製造しハドソン川での試運転に成功しており、スチブンソンが蒸気機関車を発明していました。久重はからくり人形を持って佐賀、熊本、そして大阪や京都まで巡業し、各地で人気を博しました。
仕掛けも大がかかりとなる
仕掛けは次第に大掛かりになり、動力源として使用された蒸気ガマは、ビール樽のような木製で、桶の中心に火加減を調節するためのフロガマを置き、大の男がうちわであおぐといった代物でした。この仕掛けは大阪の道頓堀で行われた50日間にわたる長期ロードショーでも大盛況でした。
しかし、天保8年(1837年)2月、大阪で「大塩平八郎の乱」に遭遇し、家財道具を焼かれて京都に落ち延びました。この出来事が、江戸末期から明治にかけて日本の近代科学の基礎を築いた「東洋のエジソン」としての久重を生むきっかけとなりました。
京都の伏見、丹波橋に移った久重は、懐中燭台や時計の修理製作のほか、新たに気泡にヒントを得て考案した無尽灯や、空気が液体に及ぼす圧力の作用を応用した鼠灯を発明し販売しました。圧搾空気を利用した無尽灯は、明治初期まであんどんに代わる照明器具として重宝され、消火器「雲龍水」は現代の手押しポンプとほとんど変わらない機械的な仕組みでした。
久重は時計技術に特に注目しており、弘化4年(1847年)には時計技術の精髄を極めるとともに、天文暦学の知識を身につけるため、京都で天文観測器の製作にあたっていた戸田家に入門し、勉学と技術習得に励みました。
京都で、近江の富豪・野村卯兵衛の後援を受け、四条に「機巧堂」という店を開き、次々に新奇な発明品を作り出しました。嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」の称号を得ました。翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀を完成させました。この頃、蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」に入門し、様々な西洋の技術を学びました。
万年自鳴鐘
久重が生涯誇りに思っていたのは「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」でした。これは高さ50センチ余りの置き時計で、文字盤が6面あり、第一面はスイス製懐中時計、第二面は和式時計、第三面は七曜表、第四面は24節気、第五面は月の満ち欠け、第六面は干支を示しています。
上部には日月の運行、太陽が地球上を移動していく軌道を表す黄道と赤道、潮の干満を示す表があり、一度ネジを巻くと400日も停まらない時計でした。しかも、時ごとに鐘を鳴らし、四季や昼夜の長さを自動的に調整できる精巧な機構を持っていました。そのほか、彫刻や象嵌を含む、優雅で美しく格調高い美術工芸品でもありました。
ボギー車の理論を独創
翌年には、汽船のヒナ型二隻を作り、琵琶湖に浮かべて、神技として都会の人々を驚かせました。また5年後にはボギー車を考案しました。京都の山鉾祭の山車は、多数の町民が引き回すもので、直径2メートルもある大車輪が4つついており、角を曲がる際に苦労していました。
そこで、山車の中央部に直径1メートルばかりの小車輪を取り付け、角に来たときには前後の車輪を持ち上げてこの小車輪だけを回すようにしました。これにより、ターンもスムーズにできるようになりましたが、このアイデアは伝統行事への尊重という観点から反対を受けて実現しませんでした。伝統行事においては、手間がかかっても人力で行うことが先祖への敬意として重視されたため、長老たちの間で多くの反対意見が出たようです。
また、小さな車輪をつけただけで、そうやすやすと回るはずがないというやっかみもあったと久重は残念がっていました。この構造は、ボギー車とまったく同じで、久重のすばらしい独創力と才能がうかがえます。
ちなみにボギー車とは二軸四輪などの台車二組の上に車体を載せた鉄道車両で。 各台車は別々に回転するため、線路のカーブを容易に通過できる仕組みとなっているそうです。
水からくりが発想の基
水からくりが久重の発想の基となり、嘉永5年(1852年)には江戸時代も終わりに近づき、各藩が富国強兵と軍備拡張に励んでいる時期でした。
久重は佐賀藩に招かれ、精煉方に入りましたが、ここでも彼の発明の才能は新兵器の開拓、製造で一段と伸びていきました。アイデアマンの中村奇輔、さらにそのアイデアを推し進めた石黒寛二という、良きパートナーを得て、大砲、汽車のひな型、蒸気機関砲、鉄砲、電信機など、数多くのものを完成させました。
蒸気機関砲は弾丸を上部の箱に入れ、蒸気の力で速射するものでした。蒸気船は長さ120cmで、ボイラーとマストを備え、アルコールに点火することで汽笛を鳴らしながら進むものでした。
汽車は機関車の長さが33cm、高さ30cmで、こちらもアルコール燃料で動きました。これは我が国で最初に製作された汽車の模型として鉄道記念物に指定され、蒸気船の二つの模型と共に交通博物館に保存されています。
その他、佐賀藩船の「電流丸」「凌風丸」、幕艦「千代田丸」のボイラー製作など、久重の活躍は目覚ましいものがありました。これらの発明の多くが、かつての水からくりから着想を得ていることが分かります。
東芝の礎を作った
元治元年(1864年)に久留米藩でも兵器製造所が設けられ、久重は久留米と佐賀の両藩を行き来しながら精力的に活動しました。彼は兵器だけでなく、製氷機、錠前、精米機、改良カマド、自転車、久留米絣の機織り機、写真機など数えきれないほどの発明を行い、筑後川の改修にも貢献しました。
明治4年(1871年)の廃藩置県により久留米藩製造所が廃止された後、久重は上京して政府の電信事業に尽力しました。老境にありながらも、電信機の製作に従事し、日本の電気工業発展の基礎を築きました。
生涯を近代技術の創出に捧げた久重は、明治14年(1881年)11月7日、83歳で病死しました。彼のお墓は東京青山墓地にあります。昭和6年(1931年)には久重に従五位が贈られ、久留米商工会議所前には彼の胸像が建てられました。
久重が晩年に創業した電信機関係の製作所、田中製造所は、彼の死後、養子の田中大吉によって引き継がれ、芝浦に移転して株式会社芝浦製作所となりました。これは後に東京電気株式会社と合併し、東京芝浦電気株式会社となり、現在の東芝の基礎となりました。日本のエジソンと称される久重の業績は、今も私たちの生活の中で息づいています。これが久留米が生んだ東洋のエジソン、田中久重の物語です。