博多は、その豊かな文化遺産で知られていますが、特に神社仏閣の数は京都や奈良に次いで日本で三番目に多く、禅寺では全国で2番目に多い「寺町」としての顔も持ち合わせています。
そんな博多の中でも特に重要な役割を果たしてきた日本最初の禅寺である聖福寺にスポットを当てます。
ただの歴史的建造物ではなく、開山以来、昭和時代を経て現代に至るまで、地元博多の人々にとって精神的な支柱となり続けている聖福寺の魅力を深掘りします。
その由緒ある背景、親しみやすさ、そして博多観光におけるおすすめのスポットとしての理由を、美しい映像と共に紹介していきます。
博多の歴史、文化、そして禅の世界に触れたい方は、是非この動画をご覧ください。
聖福寺とは
博多駅からゆっくり歩いても10分で行ける場所にあり、博多祇園山笠が走る、御供所通り沿いにあります。
聖福寺は栄西禅師が開山しており、多分博多の人たちがお金を出し合って建てたと言われます。
明庵栄西(みょうあんえいさい)は、永治(えいじ)元年4月20日(1141年5月27日)岡山の生まれで比叡山で天台宗を学び、仁安(にんあん)三年(1168)と文治(ぶんじ)三年(1187)の2回宋に渡り、臨済禅を学びました。
2回目は47歳の時でインドへ行くのが目的でしたが、交通不能で果たせなくて、宋に4年ほどとどまって建久二年(1191)に帰国。
建久 ( けんきゅう )6年に源頼朝の許可を受けて、博多居住の宋人が建てた百堂の旧跡に聖福寺を建立して禅法を広めたのです。
唐門には源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)が使われています。
また鎌倉五山の寿福寺(じゅふくじ)や京都五山の建仁寺(けんにんじ)も建立しました。
聖福寺が出てくる一番古い資料は「元享釈書(げんこうしゃくしょ)で東福寺の虎関師錬(こかんしれん)というお坊さんがお寺の色々な歴史を書かれたものです。
聖福寺の山門には1204年(元久(げんきゅう)元年)に後鳥羽上皇から贈られた「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」の勅額がかかっています。
扶桑は 日本の意味し、禅窟は禅寺の事で「日本で最初の禅寺です」という意味です。
聖福寺の初期は栄西が京都に建立した禅宗の建仁寺派(けんにんじは)です。
鎌倉幕府や室町幕府の時代は外交上の役所のように扱われていて、来日した使節はだいだい聖福寺に泊まっています。
塔頭(たっちゅう)が多くありますが、塔頭というのは一応修行を終えた人たちが住んだお寺で、本寺(ほんじ)の聖福寺の運営に関する仕事を助けていました。
幻住庵(げんじゅうあん)、虚白院(きょはくいん)、円覚寺、順心寺(じゅんしんじ)、節信院(せっしんいん)、廣福庵 ( こうふくあん ) などで終戦後は独立した宗教法人になっています。
このうち、幻住庵(げんじゅうあん)は仙厓和尚が世間を離れ静かに暮らした所で、1356年から1361年までの延文 ( えんぶん ) の頃から馬出にあったのを大賀宗九(おおがそうく)が聖福寺境内に移し、正保( しょうほう )3年(1646)に竣工しています。
仙厓和尚の墓もこの聖福寺境内にある開山堂の墓所にあります。
現在でも聖福寺は広いのですが、昔はもっと広くて、境内は町を形成していました。
御供所通り沿いに見える妙楽寺と聖福寺の間に民家が並んでいますが、ここ一体は聖福寺の境内でした。
昔の境内の中に寺中町(関内と呼ばれている)を形成しており、今にも残る博多の地名で、普賢堂、中小路、魚町、店屋、蓮池、西門などは当時の寺中町の町割りがそのまま残ったものです。
聖福寺の魅力
この一帯は、過去の空襲を免れたため、天神にはない風情のある町並みが広がっています。博多の1240年の歴史を肌で感じながら、散策を楽しむことができます。
聖福寺は、禅宗のお寺として知られ、その規模は広壮です。他の禅寺と同様に、山門、仏殿、方丈(ほうじょう)などの建物があります。現存する主要な伽藍は江戸時代に再建され、典型的な禅宗寺院の配置を示しています。境内は昭和44年(1969)に国指定史跡とされました。
博多は禅宗が中国から伝来した最初の地であり、禅寺が多く点在しています。栄西も十数年をここで過ごしました。また、境内には日本茶の発祥地として知られる「茶の木」があります。日本茶は栄西が持ち帰った茶の種から始まり、現在も聖福寺の境内で栽培されています。
聖福寺の山門には、山崎朝雲の十六羅漢(じゅうろくらかん)の木像がありますが、一年に一度の開山忌(かいさんき)の日しか公開されません。この貴重な文化遺産を訪れ、博多の歴史と文化に触れる機会をお見逃しなく。
博多芸能発祥の地
寺中町(じちゅうまち)といわれていたころ境内にある西光寺は栄西が中国からつれてきた人たちに「阿弥陀経』(あみだきょう)を伝え、僧衣と数珠を授け(さずけ)、西光寺を与えて念仏三昧の修行をさせたと伝えられています。
その子孫たちは念仏をやめて歌舞(うたまい)を業として身を立てていたと、筑前国続風土記に書かれており、歌舞伎の流行に伴い、この町の人は歌舞伎役者となって巡演し、寺中役者と呼ばれていました。
なので、寺中町は博多芸能の発祥地で、大正時代までこの町および隣町の普賢堂には浪曲師などの芸人が住み、芸能の町として賑わっていました。
博多出身の芸能人が多いのはこうした人たちの血のつながりがあったかもしれませんね。
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そして、太平洋戦争終戦後に引揚孤児救護施設「聖福寮」が境内に設置されました。
当時、博多港には、朝鮮や満州からの引揚げ者が続々と上陸。1日1万人を超す日もあり、
その中には両親を失い、栄養失調で動けず、路上にうずくまる子どもたちがいたのです。
昭和21年8月15日に開所されると同時に44人の病気の孤児たちがここにやってきました。
みんな栄養失調で、中には今のアフリカ飢餓地帯の子どものように骨と皮だけの子どももいたり、5,6歳になっているのに歩けない子どもみいました。
引揚孤児は増え続け入寮直後の子には異常行動が見られたそうです。
食事を与えても部屋の隅で隠れるように食べたり、夜になると外に飛び出して、ごみ箱をあさったり、それは引揚の途中、そうやって命をつないできた習性がとれなかったのでしょう。
栄養失調は合併症がつきもので、結核、気管支炎、皮膚病、消化不良、腸カタル、眼病などの子どもが多く、46人が入院し、そのうち10人がなくなったという数字もあります。
入寮後、2,3週間もすると子どもたちは見違えるように元気になっていきました。
1946年8月から1947年2月まで聖福寮に収容した164名の引揚孤児は、そのうち114人が血縁者に引き取られ、40人が身寄りがなく、健康回復後に他の施設に移り、死亡者は4人、そして6人が残留しました。
福岡には大量の行先のない引揚者が残っており、その多くが母子家庭で、彼女らは働かないと食べていけないので、そうした女性に託児所が必要だったので、託児所として継続することになり、昭和27年には「いづみ保育園」に変り、福岡女学院の若い先生達の献身的なお世話が続き、昭和44年まで存続しました。