福岡市城南区の歴史

城南区

城南区は県の北西部、福岡市の中央部に位置しており、福岡市都心部となる博多、天神には福岡市営地下鉄七隈線で約20分圏内で行けます。

油山を源流とし、福岡市内を流れ博多湾に注ぐ樋井川の流域にあり、この樋井川の左岸に南北に開け、北部は住宅地で、南部は油山兵陵・北の麓になり、油山市民の森をはじめ、油山観音、油山青年の家などがあり、市民のレクレーションセンターとして親しまれてましたが、

2023年5月には油山一帯のレクレーションセンターは大幅に改修され、四季を問わずに、多目的に利用されるアミューズメントセンターに生まれ変わっています。

区内には福岡市最大の私立大学である福岡大学や中村学園大学、3つの公私立高校や、15の中学校、小学校を校区とする文教地区でもあります。(画像は福岡大学キャンパス・Google mapより)

有名人にはお笑い芸人・カンニング竹山、女優、タレントの橋本環奈、空手家・西村 拳(にしむら けん)らが出ています。

福岡市の区の中では中央区に次いで2番目に狭い区であり、1972年に福岡市が政令指定都市になった当初は西区の一部でしたが、1982年に西区、早良区、城南区の3区に分割される際に福岡城より南側に位置することにより城南区の名が付いています。

2023年5月1日現在の推計人口は133,366人と福岡市の中では最も少ない町で、福岡大学や中村大学などの若い人が集まるエリアでありながら、65歳以上の高齢者が約3.1万人と全人口の23.4%を占めており、年々高齢化が進んでいます。

弥生時代の城南区

周辺には「茶山」「金山(かなやま)」「松山」「友丘」といった地名が示している通り、比較的起伏に富んだ地形であり、金山を中心とする低兵陵地(ていきゅうりょうち)に遺跡が分布しており、かつてカルメル修道院があった神松寺3丁目付近には、丘陵上(へいりょうじょう)に弥生時代の墓地が営まれていたことがわかっています。これまでの発掘調査で100基を超える木棺(もっかん)や甕棺(かめかん)などがみつかりました。

樋井川流域の台地上にある宝台遺跡(たからだい・いせき)からは、弥生中期の住居跡、墓、祭祀(さいし)、遺構が発見され、集落の構造がよくわかる代表的な遺跡です。

油山周辺は古墳の集中地帯で、東油山、梅林、七隈、西片江、片江などに多数の古墳群が存在します。

平安時代の城南区


また、平安時代の後期から後世まで仏教を伝えようとした経塚遺跡(きょうづかいせき)も多く点在しており、田島(たしま)京ノ隈経塚(きょうのくま・きょうづかま)からは経筒(きょうづつ)のほか副葬品として、蓋のある石製容器の合子(ごうす)や、小刀である刀子(とうす)、毛抜き、貨幣、数珠玉(じゅずたま)などが見つかっており、12世紀後半の遺跡とされています。

また、油山からは承徳(じようとく)3年(1099)の石製経筒(せきせいきょうづつ)や、保安元年(ほうあんがんねん)(1120)の銅製経筒など10点ほどの経筒が出土しており、特に西油山経塚から出土した承徳3年の経筒には銘文(めいぶん)があり、死去した本願主(ほんがんしゅ)経得に代わって、その子ども5人が中心になって写経を完成させ埋納したことがわかっています。

平安後期の油山は宗教的色彩の強い地域でした。

11世紀後半頃から開発が進んでいた油山山麓や樋井川河口の草ヶ江には鴻臚館(こうろかん)貿易の廃絶後も中国商人が住居を構えていた可能性も高いと言われてます。
蒙古襲来のあった文永 ( ぶんえい )11年(1274)の文永の役で、日本軍に赤坂を追われたモンゴル軍は別府の野原に退却しました。

これを追った肥後国・ご家人・竹崎李長(たけさき すえなが)は鳥飼の汐干潟や同じく鳥飼の塩屋の松の付近で元軍と戦い、危うく落命しそうになりますが、肥前国御家人・白石通泰(しらいし みちやす)が後方から駆けつけて助かったことが蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)にも記されています。

汐干潟や塩屋の松という地名からすると、当時、鳥飼では製塩が行われていたと考えられます。現在、鳥飼に塩屋橋という橋があるのは、その名残からと言われています。

実際に、古代から中世にかけての地形を調べてみると、縄文時代前半の温暖化や陸地の海進(かいしん)といわれる、海面の上昇で陸地の沈降によって海が陸に入り込んで博多湾が形成されています。

そこに注ぐ樋井川の河口に、地質学で「古鳥飼湾(ことりかいわん)」と呼ばれる入り江が出来上がっています。

この入り江は、古代から中世にかけて「草ヶ江」と呼ばれていたようです。
樋井川は当初、この入り江に注いでいましたが、黒田長政が福岡に入ってから、福岡城が築城され、草ヶ江が外堀化(そとぼりか)されると、川の水が流れる道の付け替え工事が行われ、樋井川は西新、現在のペイペイドーム方面に流れを変え、直接博多湾に注ぐようになりました。

草ヶ江の時代、この入り江は船舶が停泊していたこともわかっており、旧海岸線に沿って古墳や中世の石造物などを見ることができ、鳥飼もそうした背景にあったといえます。

この古図は見た人もいると思いますが、博多区の住吉神社に奉納されている絵馬の「博多古図」です。鎌倉時代に書かれたものを江戸時代に複写したものですが、中央には現在の福岡城跡を中心に南北に延びている兵陵地帯は東に冷泉津(れいせんつ、れいぜいつ)、西に草香江の二つの入り海が書かれており、草香江は大きな入り江だったことがわかります。当時は樋井川もこの草ヶ江の入り江に流れ込んでいたと思われます。

鎌倉幕府の知行地だった

蒙古襲来の後、鎌倉幕府は戦功のあった武士たちにご褒美となる土地を与えました。正応元年正応 ( しょうおう ・がんねん)1288年10月3日には、金山や七隈周辺の早良郡七隈郷田地(さわらぐん・ななくま・ごう・でんじ)や、柏原や桧原、長尾、鳥飼、田島(たしま)などを含む早良郡比伊郷田地(さわらぐん・ひいごう・でんじ)を薩摩や肥後の家来に与えています。

なかでも渋谷致重(シブヤマサシゲ)の子孫に与えられた下長尾10町のうち1町は南区の大平寺に寄進されました。

南北朝期の戦乱が続いていた動乱期には、南朝方の菊地武光は康安元年( こうあんがんねん・1361 )北朝方(ほくちょうがた)の少弐頼国や松浦党と戦い、油山に陣を構えていた少弐頼国らを撃退しています。

室町後期になると山口の興隆寺と筥崎宮は、筥崎宮領だった田島村内塩浜や別府を巡って言い争ったり、鳥飼に田んぼの用水のための、川などの流れをせき止める井堰(いせき)確保にも言い争うなど再三にわたり大内氏の裁量を受けました。結果的には別府8町は大内氏に近かった興隆寺に差し押さえられています。

この頃から、筥崎宮、承天寺、宗像大社などの大きな神社が財力や領地を持っていたことがわかりますね。

続きは動画でご覧ください。
今更聞けない城南区の観光名所、近所の神社、近所の公園、橋、川の歴史を知る城南区の歴史ガイド。

歴史発見

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福岡県各地を歩いて歴史の一歩奥へ掘り下げて史実なりを紹介しています。歴史に興味があって始めた仕事も気が付けばかなりの年数が経っており、それならとブログや動画にして、後世の何らかの役に立てればと厚かましくも思っています。

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