西新の地には、興味深い歴史的な出来事が数多く織り交ざっています。それらの出来事の一つは、現在の藤崎に位置する早良区役所の辺りに福岡監獄所(下図)が建設されたことです。大正5年(1916)、福岡監獄所は中央区天神須崎から西新町の国有地へと移転しました。
この新しい監獄所は、明治41年(1908)から7年かけて建設され、その外観や囲む塀には約1100万個の煉瓦が使用され、百道松原に巨大な煉瓦建造物が現れました。この監獄所の建設は驚きでしたが、その巨大な煉瓦建造物は、地域の住民に大きな印象を与えました。
当時、県道と監獄所の境には2メートルほどの土手があり、子供たちはその上で草スキーを楽しんでいました。夜になるとこの一帯は真っ暗になり、塀の外周には墓地も存在していたため、子供たちは肝試しも行っていたと言います。
戦前は静かな場所でしたが、戦後になるとこの地域は急速に宅地化が進み、環境が一変しました。そして、昭和40年(1965)には福岡刑務所が粕屋郡宇美町に移転しました。
現在、この地域には早良区役所、早良市民センター、早良警察署、税務署、地下鉄藤崎駅、バスターミナルなどが立地しており、監獄所の面影はほとんど感じられません。
競馬場があった
さらに、昭和初期の地図を見ると、西南大学の右側に楕円形の運動場(上図)が描かれています。これが実は競馬場で、愛宕神社の春季大祭の一環として行われ、大変賑やかでした。しかし、大正14年になると姪浜町が競馬場を新設し、愛宕神社の大祭の競馬場もそちらに移ったため、西新町の競馬場は昭和10年代まで百道の海岸に残っていたと言われています。
西南学院の移転や海水浴場の誕生などが、西新町の発展を支え、百道の魅力が輝きを放つ地としての歴史を紡いできました。