博多釜屋町(現:博多区奈良屋町)にあった芸妓組合。福岡県では明治15年(1882)5月、遊郭に属さない町芸者(遊郭に居る芸者を廓芸者と呼んでいた)の居住地を制限したので、博多の町芸者は萱堂町(現:博多区奈良屋町)に集まったのです。
明治21年に掛町戸長などの出資で釜屋町に四戸の芸者屋を新築し28名の芸者を揃え萱堂芸者と言いました。
そして、町名を萱堂町としました。
明治22年の暮に新萱堂を相生町と改め、相生券番を創立しました。
この頃の線香代(遊興費)は1本7銭、一仕切(約4時間)16本で、昼と夜とがそれぞれ1円12選。料理代が20銭から上等で30銭。
2円50銭もあれば昼間から夜にかけて美妓をはべらせて大尽遊びができました。
博多商人の贔屓もあって、明治19年頃には券番事務所の他に14軒の置屋が並び芸妓数も67人となった。
明治34年(1901)に取り締まりへの反感から水茶屋への脱退組も出ましたが、明治42年には芸妓150名の陣容となり他の券番を圧倒する陣容でした。
大正になって組織を株式会社としたのですが、料理屋などの介入があって、うまくいかず、そのうえ博多中心街が中洲へ移動、他券番の発展に、昭和12年(1937)には芸妓186名を擁したが424名の中洲券番にははるかに及ばず太平洋戦争となるや、料亭閉鎖、贅沢禁止で遊興どころではなく、終戦前に解散しました。なお券番は昭和20年の博多大空襲で焼失しました。