野村望東尼の生涯やエピソードをご紹介しています。本名を野村もとと言い文化3年(1806)福岡藩士浦野勝幸の三女として生まれました。
父の勝幸は生け花などもたしなむ風流人で、母みちは百姓今泉氏の娘で、勝幸にとっては3人目の妻でした。
最初の妻とは離縁し、2人目の妻は病みがちで、みちは当時、浦野家の住み込み奉公していた下女(げじょ)でしたが、病弱の妻は気立ての良い人で、みちに「私が死んだら。ぜひ後添えに・・・」といっていたそうです。
その言葉通りにみちは後妻となり、望東尼となる「もと」を生みます。
13歳の頃、2~3年間、藩の家老・林五左衛門に行儀見習いとして勤め、17歳で同じ福岡藩士・郡利貫(こおりとしつら)に嫁ぎますが、20歳も年長(ねんちょう)の利貫(としつら)とうまくいかず半年余りで離婚しています。
利貫(としつら)は70歳になっても若いお妾さんを持っていたというほどのプレイボーイで、浦野家の話によれば、望東尼が連れてきた女中に利貫(としつら)が手を付けたので、これに怒った望東尼が三下り半を突き付けて離婚したそうです。
後に勤皇派に味方するくらいですから、この時から気が強かったようです。
24歳で同じ福岡藩士である野村貞貫(さだつら)の後妻となり、同時に先妻(せんさい)の子になる、貞則、鉄太郎、雄之助の3人の母ともなりました。その時、長男貞則はすでに18歳の青年でした。
自分自身でも子どもを4人生みますが、幼いうちに皆、死んでしまいます。
先妻の子である貞則は家督相続後に自殺し、鉄太郎もあまり長生きしていないようです。三男の雄之助は福岡藩士の隅田九兵衛の養子になるのですが、後に脱藩して行方知れずになっており、子どもにはあまり縁がなかったようです。
福岡の歌人・大隈言道
天保3年(1832)26歳の時、夫・貞貫(さだつら)と共に福岡の歌人・大隈言道(おおくまことみち)の門下に入ります。この頃からの歌が後に、歌集「向陵集(こうりょうしゅう)」に収められることになります。
弘化(こうか)2年(1845)40歳の時に、家督を貞則に譲って夫とともに平尾の向陵の山荘で余生を送るために隠棲(いんせい)しました。
しかし、安政6年(1859年)7月に夫の貞貫(さだつら)が病気で亡くなります。
夫の初七日の法要(ほうよう)が終った後、彼女は博多区吉塚(当時は上東町(現在の呉服町)の明光寺で得度剃髪し、この時より、招月望東禅尼(しょうげつぼうとうぜんに)にという法名(ほうみょう)を称するようになりました。
文久元年(1861)には、大隈言道に再会することや、歌集出版のためなど幾つかの目的を持って京都に上がりました。
京都滞在中は、名所旧跡を訪れるだけでなく、謹慎中の近衛家(このえけ)の老女・津崎村岡を訪れて歌の贈答をしたり、有名な太田垣連月(おおたがきれんげつ・江戸時代後期の尼僧歌人・陶芸家)に会ったり、当時の維新を7年後に控え、京都の情勢が最も緊迫していたころで、文久2年【1862)5月に起きた寺田屋の変をはじめ京都の諸情勢をつぶさに見聞したりしましたが、それらのことはすべて後の望東尼に大きな影響を与えました。
平尾山荘
帰郷後、平尾山荘には筑前勤皇党の加藤司書、平野國臣、月形洗蔵、中村円太らが出入りして密会場所になり、彼らはこの山荘で国事を論じたり、望東尼に和歌の手ほどきを受けたりしました。
この草庵に移ったとき、「音もなきかけいの水のしたたり・あまりたる谷の一つ家」と詠んだ平穏に暮らせる、住まいは佐幕派と勤王派のとの戦いにより、失われていったのです。
現在の平尾山荘の入り口前に立つ記念碑は主の望東尼を見つめる一人の男性が描かれていますが、実はこのひとこそ勤皇派の志士・高杉晋作なのです。
元治元年(げんじがんねん)(1864)11月11日、長州藩の佐幕派に命を狙われた高杉晋作が中村円太の手引きで平尾山荘に10日間ほど匿われていたことが数々の資料でわかっています。
高杉晋作との出会い
高杉晋作は29歳で亡くなりましたが、彼の死後100年が経った1966年4月14日に、高杉晋作の記念祭で彼の遺品が展示され、その中から幕末の重要な歴史資料と思われる12枚の和紙が発見されました。この発見を受けて、同年4月末に九州大学が調査を開始しました。
調査により、高杉晋作と望東尼との間に特別な関係があったことが明らかになりました。また、元治元年(1864年)11月12日に、高杉が平尾山荘に逃れた際、望東尼の仲介で西郷隆盛が訪れ、高杉と会談したという話が残っていますが、これを証明する記録はありませんでした。しかし、九州大学の調査チームのリーダーだった長沼賢海教授は、「高杉晋作と西郷隆盛の山荘会談が実際に行われた可能性が高い」と発表しました。
長沼教授は後に九州帝国大学の初代国史学科教授となり、その後も香椎中学校長や久留米大学教授を務めました。彼は西郷隆盛が太宰府を訪れていたこと、そして少なくとも2回は福岡と鹿児島を往来していた新たな事実を発見しました。この情報は、筑紫野市二日市に住む歴史研究家の自宅から発見された古い日記によって裏付けられました。西郷隆盛が幕末期に三条実美をリーダーとする尊王攘夷派の五卿の太宰府入りを密かに護衛していたと考えられています。
高杉晋作の隠れ家であった平尾山荘が、維新を推進する薩長同盟の会談の場としても使用されたことで、新たな注目を集めています。この山荘は、筑前勤王党のアジトとしても知られていました。
望東尼という人物も重要な役割を果たしており、慶応元年(1865年)には太宰府で滞在していた五卿の一人、三条実美から還暦祝いの歌をもらい、勤皇派を支える重要な存在であったことが明らかにされています。このエピソードは、望東尼がいかに深く勤皇運動に関わっていたかを示しています。
高杉晋作自身も、長州での勤皇党弾圧のニュースを聞き、山口へ急いで帰郷しました。西郷隆盛との会談が事実であれば、その帰郷は西郷からの影響を受けた可能性があるとされています。
最終的に高杉が平尾山荘を離れる際、望東尼は彼に手作りの衣装を与え、「真心を尽くして筑紫で縫った着物を国のために戻る時の袖にしよう」という意味の歌を贈りました。これは高杉が戦場に向かう前に、望東尼が彼を激励するためのものでした。
高杉晋作を送り出した後、福岡藩では佐幕派が藩政の主導権を握り、慶応元年(1865年)には勤王派に対する弾圧が行われました。これは「乙丑の獄」と呼ばれ、多くの勤王派が処罰されました。藩の家老や藩士たちは福岡市中央区唐人町にあった桝木屋牢で処刑されました。
糸島市志摩にある姫島で投獄生活
望東尼もこの弾圧に巻き込まれ、糸島市志摩にある姫島に投獄され、1年余りを過ごしました。獄舎の厳しい条件の中、彼女は持参した着物で風を防ぎながら、60歳で体の丈夫ではない中、苦しい獄中生活を送りました。望東尼の悩みや悲しみが綴られた手紙や日記は、彼女の内面の葛藤を伝えています。
福岡市立歴史資料館には望東尼が残した600点余りの手紙や日記が寄託されていますが、これらは直接公開されていません。慶応2年(1866年)9月、高杉晋作は過去の恩義を返すため、奇兵隊に入隊していた藤四郎ら6人を姫島に送り、望東尼を救出しました。この救出劇では、藤四郎らが巧みに牢獄を脱出し、望東尼を背負って船まで運び出しました。そして、望東尼は無事に船で山口県下関にある高杉晋作のもとへと逃れることができました。
このエピソードは、当時の政治的葛藤の中での人間関係と、勤王派による互いの支援と連帯の精神を示しています。
高杉晋作の臨終
慶応3年(1866年)4月、望東尼は高杉晋作の最期に立ち会いました。高杉が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠んだ上の句を望東尼が「すみなすものは心なりけり」と受けたという逸話は非常に有名です。高杉は「おもしろいのう…」と言い遺してこの世を去りました。
その後、望東尼は山口から三田尻に移り、薩長連合軍の東京進軍を祈願するため、防府天満宮で7日間の断食祈願を行いました。
しかし、彼女はやがて病に倒れ、維新を目前にしながら1866年11月6日に防府市三田尻で61歳の生涯を閉じました。
平尾山荘については、当初の建物は朽ちてしまっていましたが、明治42年(1909年)に向陵会によって復元され、その後望東会が引き継ぎ再建されました。現在は福岡市の指定史跡となっており、福岡市が管理しています。
望東尼のお墓は、彼女が亡くなった山口県防府市三田尻にありますが、福岡市の博多吉塚にある明光寺にも彼女の墓があります。また、望東尼の生誕地を記念する碑が福岡市赤坂3丁目に立てられています。
平尾山荘は年中無休で、午前9時から午後5時まで(最終入場は午後4時30分)自由に見学できます。ただし、園内には駐車場がないため、近隣の駐車場を利用する必要があります。周辺には動植物園や美しい庭園のある松風園など、散策に適したスポットもあります。