天神は800年前では海で、徐々に陸地となって現在があります。
そして、福岡城のお堀から、渡辺通りの1.5倍ほどの幅がある巨大な堀が天神の中心部を横断していたのは、そう遠くはない話です。
明治43年(1910)まで現在の天神の中心部を横切る形で「肥前掘り」がありました。
肥前ではなくて「筑前」の町だから「筑前掘り」ではないのかと思う人もいるかも知れません。
肥前掘りと言われる由縁があります。
実は、関ヶ原の戦いまでさかのぼります。関ヶ原の戦いは西軍の石田三成と東軍の徳川家康が戦いますが、その西軍についていたのが佐賀藩で、東軍についていたのが我ら黒田藩です。
勝負は東軍家康に軍配があがり、西軍についていた佐賀藩は、非常に立場が悪くなり、藩断絶の危機が迫ってきます。佐賀藩は必死に謝罪をし、お家断絶は免れようとしますが、なかなか許してもらえませんでした。
そこで、親睦関係にあった福岡藩に出向き、なんとか許してもらうようにお願いできないかと相談します。
関ヶ原の戦いで、高い功績を上げていた黒田如水、長政の福岡藩がそこまで、佐賀藩を思うならと、家康は黒田親子の懇願を聞き入れてくれ、佐賀藩のお家断絶は事なきを終えたのです。
お家断絶を免れた佐賀藩はそのお例にと福岡城を作るときに掘りの工事を請負い完成させたことから、佐賀の肥前をとって肥前掘または佐賀堀ができたのです。
肥前掘りを現在の地図に当てはめると図のようになります。
このように岩田屋三越、福岡三越はお堀でした。
三越、天神福岡駅の下は天神地下街の8番街にあたり、ここは、その肥前掘りの名残を残す「石積みの広場」になっており、ここが肥前掘りの中心だったことがわかります。
その後、明治43年に開催された第13回九州沖縄八県連合共進会の会場用地とするため肥前堀は埋め立てられ消滅しました。