博多屋台の歴史

博多区

博多に来たら「屋台」といわれるほど、今や福岡の屋台はすっかり人々の生活と町並みに溶け込み、全国的な風物詩となっています。
しかし、戦後の混乱期に登場した屋台が、生き残りをかけて行政と必死の戦いをしてきたことは、あまり知られていないようです。

福岡・博多の夜のオアシス「屋台」。
だけど、その裏には、厳しい規制や圧力に勇気と行動力で必死に食らいついていった屋台の人たちのドラマがありました。

屋台の起源

屋台の起源福岡に屋台が初めて登場したのが、1946年(昭和21年)です。

戦後の引揚者や戦争で、夫を亡くした未亡人や家族が、わずか食料をリヤカーに乗せて、闇市に紛れて売り歩いていたのが、屋台の始まりです。
敗戦国の日本の当時は、生きるために、必死でしたから、屋台を出す方も、立ち寄る方も、、衛生管理は二の次だったようです。

落語にも、ちょくちょく紹介される江戸時代の屋台の営業スタイルは「うどん屋」「そば屋」「おでん」が代表的でしたが、あんなのんびりしたものではなくて、とにかく生存競争が激しい日常社会だったわけです。

戦後の屋台のメニューといえば、ドタバタに紛れ込んで、すぐに用意できる、煮物、焼肉、焼き鳥、焼き魚ですが、それがどんな種類の食べ物かは定かではない物もありました。

アルコールは日本酒がメインで、米や麹を発酵させた「どぶろく」といわれる濁り酒で、とにかく酔わせる目的でアルコール度数が高い物だったようです。

またカストリ酒といわれる主にサツマイモや麦を原料にしており、素人があり合わせの道具と不確かな知識で製造した粗悪な密造焼酎で、とても焼酎と言われるようなものではありませんでした。

とりあえずアルコールの臭気はあるが原料・度数とも不明という得体の知れない物が多く出回っていたのが戦後の屋台の実態でした。

お断りしておきますが、今の屋台がそうだと言っているわけでないので、誤解のないようにお願いします。

では福岡の屋台発祥の地はどこかとなると、やっぱり闇市が多かった場所「天神、長浜、渡辺通り、中洲、清川、春吉、石城町、呉服町」あたりです。

特に、寺社の門前や大店の立ち並ぶ通りといった人の集まりやすく、終戦後の福岡の経済の中心地だった博多区の那珂川や博多川、石堂川沿いにある大博町、中呉服町、築港、須崎町、中洲、春吉、長浜といった周辺に多く出現したようです。

屋台は移動が可能なので本来は好きな場所つまり、より集客の見込める場所に移動して営業できる利便性をもつ一方で、川沿いを選ぶ理由がもうひとつありまして、食器の洗い場や廃棄など考えれば当然の成り行きだったと思います。

屋台絶滅の危機を救った男

戦後の日本を統治下(とうちか)においていたアメリカ軍のGHQの存在は屋台存続に大きな影響を与えました。特に、アメリカ軍は自国同様に規律や衛生管理に厳しくしており、日本の健全なる復興にも積極的に意見していた時代ですから、闇市の動きにはとっても敏感でした。

戦後間もない行政は、想像を超える容赦のない厳しい指導でしたが、それでも、しぶとく生き残った人たちが今の屋台につながる動きをしていくようになり1950年(昭和25年)になって福岡市移動飲食業組合という組織を立ち上げました。
しかしながら、1951年(昭和26年)に、福岡市が1952年(昭和47年)4月以降の屋台営業を禁止することを打ち出しており、いよいよ存続の危機が迫ってきました。

そのために、組合は裁判へ持ち込むものの、願いはかなわず屋台側の敗訴となって、ついに福岡県が1955年3月31日を持って屋台を全廃するという方針が確定することになりました。

博多屋台の歴史を動画で解説しています

歴史発見

歴史発見

福岡県各地を歩いて歴史の一歩奥へ掘り下げて史実なりを紹介しています。歴史に興味があって始めた仕事も気が付けばかなりの年数が経っており、それならとブログや動画にして、後世の何らかの役に立てればと厚かましくも思っています。

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