福岡医科大学の歴史と発展:明治時代の設立から現在までの変遷

東区

明治36年(1903年)に福岡医科大学が設立された当初、医科大学の門前地域である北東の豊平村金平地区と南西の崇福寺門前町の間には建物が少なく、しかし附属医院の患者数が増えるにつれて、医科大学前も市街地化していったということが報告されています。

医科大学前の道路沿いには、受診者や入院患者の家族が泊まるための旅館がいくつか立ち、それに伴って薬店、土産物屋、食料品店、呉服屋、小間物屋、食堂、居酒屋などが次々と建ち並ぶようになりました。そして、1910年(明治43年)3月9日には、福博電気軌道が大学前から黒門橋まで開業しました。これにより福岡市の中心部と医科大学が電車で結ばれ、附属医院の利便性が向上しました。

しかし、電軌の敷設に関しては、会社側と医科大学側の間で論争がありました。会社側は単線架空式の方式を提案しましたが、医科大学側は技術上の懸念から反対しました。結局、大学付近のみを複線架空式にすることで妥協が成立しました。

さらに、1903年(明治36年)には京都帝国大学福岡医科大学が設立され、中洲にあった県立福岡病院が馬出に移転し、京都帝国大学福岡医科大学附属医院となりました。これが現在の九州大学医学部附属病院となっています。

・医学部正門
明治36年(1903年)に京都帝国大学福岡医科大学として発足した九州帝国大学医学部は、昭和3年(1928年)創立25周年を迎え、記念事業の1つとして医学部正門が建てられました。
この正門は、病院地区キャンパスの整備、改修の遷移と共に姿を変え、医学部を象徴する門として、現在の場所に設置されています。

正門横にあるこの門衛所(下図)は医学部構内に遺されている唯一の木造建築物です。残念ながら正確な建築年月日の記録はわかりませんが,明治36年 (1903) の地図には既に記載されています。

面積は (8.25 坪)ほどの小さな平屋で。外壁は下見板張り(したみいたばり)で,フード状の庇(ひさし)は弯曲した腕木(うでぎ)で支えられて,当時の木造建築としては最新の工夫がなされています。医学部の歴史を偲ぶ内部も当時の面影が残っており、創立時の場所に保存するものである。

門衛所の後方には

医学歴史館があります。

医学歴史館は明治36年(1903年)3月大学創立時に建てられた解剖学講堂を復元したもので、この木造階段教室は新入生が最初に医学の雰囲気を感じる、象徴的な建物でした。

病院キャンパスの整備にともない、昭和51年(1976年)医学部同窓会によって旧中央講堂のすぐ隣に移築保存されていましたが、平成9年(1997年)新病院が建設されることになり、旧中央講堂とともに解体されてしまいました。

こちらの歴史資料館は、水曜日から日曜日は自由に見学できます。館内には、九州大学医学部が残してきた大きな業績や、後世に伝えたい歴史的な資料や医療機器などを多数展示しています。
日頃見れない貴重な資料写真や医療機器は後学のためにも見学されることをおすすめします。こういう場所が、福岡の観光名所になればいいのにな~と思います。

九州大学医学部講内にのこった創設当時の面影が感じられる建築物であっただけでなく、福岡県内にのこる木造洋風建築物としても最も古いものの一つでした。

現在も学生たちが学ぶ学舎にも代表的な戦前建築があります。

まず、
九州大学医学部基礎研究A棟
(九州帝國大學醫學部第一・第二・第三内科教室及び病室)
竣工: 1931年(昭和6年)4月

医学部基礎研究B棟
(九州帝國大學醫學部法醫學・細菌學・衛生學教室)
竣工 1935年(昭和10年)8月

歯学部基礎研究棟
(九州帝國大學醫學部第一外科教室及び病室)
竣工 1927年(昭和2年)3月

この他にも九大医学部と所縁のある内外の著名な博士たちの記念碑をも構内のあちらこちらに建っています。
このように九大医学部病院構内にある歴史に残る遺産を見学しながら、疲れたらロイヤルホストやタリーズコーヒーなどで休憩もできますので、一度足を運んでみてはどうでしょう。

九大病院タリーズ

歴史発見

歴史発見

福岡県各地を歩いて歴史の一歩奥へ掘り下げて史実なりを紹介しています。歴史に興味があって始めた仕事も気が付けばかなりの年数が経っており、それならとブログや動画にして、後世の何らかの役に立てればと厚かましくも思っています。

関連記事

特集記事

TOP
error: Content is protected !!