聖福寺は太平洋戦争終結後、引揚孤児を救護するための施設「聖福寮」を境内に設置しました。当時、博多港には朝鮮や満州からの引揚者が大量に上陸しました。その中には両親を失い、栄養失調で苦しむ子どもたちも含まれていました。
昭和21年8月15日に開所された聖福寮には、44人の病気の孤児が収容されました。彼らの多くは栄養失調で骨と皮だけの状態でした。引揚孤児たちは異常な行動を示し、食事を与えても隠れて食べたり、夜になると外に出てゴミ箱を漁ったりしました。栄養失調には合併症がつきもので、多くの子どもたちが結核、気管支炎、皮膚病、消化不良、腸カタル、眼病などに苦しんでいました。入院した子どもたちの中から10人が亡くなり、その苦境を乗り越えた子どもたちは2〜3週間後には元気になりました。
1946年8月から1947年2月まで、聖福寮は164人の引揚孤児を収容し、そのうち114人が血縁者に引き取られ、40人が他の施設に移りました。
残念ながら4人の孤児が亡くなり6人が残留しました。
聖福寮の成功を受けて、福岡には行き場のない引揚者が多く残りました。特に母子家庭の女性たちは働かなければ生計を立てることが難しく、そのために託児所が必要でした。
昭和27年に「いづみ保育園」として継続し、福岡女学院の熱心な先生たちのお世話が続き、昭和44年まで存続しました。聖福寺は太平洋戦争の影響と引揚孤児への支援として、その役割を果たしました。