桧原桜のエピソード:福岡市南区桧原桜公園

南区

福岡自動車運転免許試験場の近くの桧原2丁目に桧原桜公園があります。
桜の名所として知られ有名なエピソードがあります。
1931年(昭和6年)の新堤道路拡張の完成を記念して道の両側に背丈ほどのソメイヨシノが2.30本ほど植えられました。

1980年頃まで、何度か道路が拡張されるにしたがい、桜の木も伐採されていき、数本が残りました。
桧原桜

桜の木がある前の道路は長住と桧原を結ぶもので、1980年頃までこのあたりは曲がりくねった道路が続き、道幅が狭くて車の離合も困難な場所でした。

そして1984年に道路拡張などの整備工事が始まります。

桜がいっぱいのつぼみをつけ、間もなく開花するという1984年3月10日の朝に、1本の桜が伐採(ばっさい)されました。

残りの桜も同じ運命かと思われた、翌日の朝、残りの桜の木に次のような歌がつるされていました。

「花守り(はなもり)/ 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬(にじゅん) ついの開花を 許し給え」

桧原桜を愛する市民が「せめてあと20日、最後の開花まで桜を残してほしい」と訴えたのです。
その後、桜の木には次々に短歌がつるされるようになりました。

そして、朝のジョギングで色紙を発見した九州電力の社長 川合辰雄さんは、それらの歌に共感して、社内の広報担当に相談。
広報担当は西日本新聞社にも事の成り行きを相談すると、1984年3月23日の夕刊の社会面に「短歌に託し命乞い」という記事で桧原桜への市民の心が掲載されたのです。

そして、この記事が進藤一馬福岡市長の耳に届くと、

「桜花(はな)惜しむ 大和心の うるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻(かずま)」と桜を思う市民への返歌を綴りました。

この出来事はさまざまな人の心を動かし、ついには工事計画を変更して8本の桜を残すことになりました。現在、一帯は桧原桜公園として整備され、桜は増えて季節になると美しい花を咲かせています。

桧原桜のエピソードは、作曲家・團伊玖磨が随筆「パイプのけむり」で紹介したことから有名になり、雑誌「リーダーズ・ダイジェスト」に転載されて世界的に知られるようになります。また、小学校の教科書などにも掲載されました。桧原桜公園には歌碑が建立され、市民から桜をテーマにした短歌を募集する桧原桜賞や、桜の景色を写した桧原桜フォトコンテストなどが行われています。

ちなみにソメイヨシノの寿命は70年~80年と言われ夏場に乾燥する西日本地区では樹齢が80年を超えるのは珍しいと言われており、桜は盛り土を好むので、桧原にある花畑小学校、中学校の敷地内の赤土が使われており、乾燥を防ぐ池のほとりに植えられている好立地ということで、ここのソメイヨシノは、とても美しく市民の心を魅了するそうです。

福岡市南区桧原桜公園

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福岡県各地を歩いて歴史の一歩奥へ掘り下げて史実なりを紹介しています。歴史に興味があって始めた仕事も気が付けばかなりの年数が経っており、それならとブログや動画にして、後世の何らかの役に立てればと厚かましくも思っています。

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