江戸時代(1603-1868年)に現在の南区寺塚二丁目にあたる地域、かつての高宮村について語っています。この地には、5世紀から6世紀にかけて作られた洞窟があり、その中には仏教の像が浮き彫りにされていました。具体的には、阿弥陀如来を中心に、左右に観音と勢至菩薩の像があったと記されています。この洞窟は「穴観音」と呼ばれ、地元の人々によって信仰されていました。
穴観音の信仰*
2代藩主黒田忠之は、穴観音の霊験(神秘的な力)を信じて、洞窟の前に拝殿(祈りを捧げるための建物)を建てました。しかし、この拝殿は後に壊れてしまいます。元禄6年(1693年)に、長円寺の湛堂和尚が拝殿を再建し、さらに近くに興宗寺を建立しました。この寺はもともと遠賀郡熊手村にあった龍昌寺から移されたものです。
興宗寺の歴史
興宗寺は、落ち着いた環境で多くの参詣人を引きつけました。また、明治10年(1877年)には、この洞窟が西南戦争(1877年、西郷隆盛が率いる反政府勢力と政府軍との戦い)における謀議の場として使用されました。この事件を「穴観音会議」と呼びます。福岡党と呼ばれる一派が、政府に対して反乱を起こそうとしましたが、計画が漏洩して失敗に終わりました。
この反乱による犠牲者は多く、戦死54人、死刑5人、獄死43人、懲役10年以下422人を受けた人々が記されています。特に、死刑を受けた首謀者の中には、以前の政治的弾圧である「乙丑の獄」に関連する人物の子供たちも含まれていました。
死刑になった首謀者のうち武部小四郎は福岡藩による勤皇派弾圧事件「乙丑の獄」で切腹した建部武彦の子どもで、加藤堅武(かとうたかむ)もその時同じく切腹した元福岡藩家老加藤司書の子供でした。
このあたりは穴が多く、点在しているため百塚(ひゃくずか)といって古墳群のあったところで
福岡城築城のおり、不足分の石材をここから採掘して運搬したためといわれ、此処の古墳だけが供養のため残されました。
穴観音として地元に親しまれています。
また、石室奥は福岡城まで続く抜け穴であったとも言い伝えられてきました(真相は定かではない)。
穴観音がある石段の下にある興宗寺の広い境内にもうひとつの名物というか、観光スポットがあります。
赤穂義士のお墓
南区になんと、赤穂義士のお墓があるんですよ!ええ、あの「忠臣蔵」で有名な赤穂義士ですよ。本家本元の墓所は東京の泉岳寺にありますが、ここにもあるんです。これがまた、ただの墓じゃありません。
昭和10年、1935年のこと。ある熱烈な赤穂義士ファン、木原善太郎さんが、自腹を切って、泉岳寺そっくりにこの墓所を作ったんです。完全再現、原寸大で!浅野内匠頭や大石内蔵助を始めとする47士の墓碑、さらには吉良上野介の首を洗ったという首洗いの井戸まで、もう、こだわりがすごい。玉垣や石畳も忘れてない。これぞ、熱愛の極み!
でも、ちょっと待ってくださいね。各墓の下には、泉岳寺から持ってきた土が入ってるんだとか。切腹した46人の法名の頭に「刃」の文字。これ、なんというか、無念を晴らした証みたいなものですよね。ただ、生き残った寺坂吉右衛門の墓には「刃」なし。細かい!
でも
実はね、八幡西区の花尾山にも、同じく赤穂義士の墓所が再現されてるんです。でも、再現性でいえば、興宗寺の方が上かなって。木原さんの愛の深さ、こだわり、そして少しの変わり種が、ここ興宗寺を特別な場所にしているんですね。
というわけで、歴史好きもそうでない方も、一度は訪れてみてはいかがですか?赤穂義士ファンの熱意に触れること間違いなし、そしてちょっとした時間旅行を楽しめるかもしれませんよ。