ももち歴史の魅力をご紹介します。シーサイドももちは、福岡市中央区地行浜と早良区百道浜を結ぶ埋め立て地で、歴史と未来が絶妙に交差する場所です。
百道がよく知られるようになったの鎌倉時代から
奈良・平安時代には、百道は名所とされておらず、当時の文献にもその名前は見当たりませんでした。しかし、百道が知名度を上げるきっかけとなったのは鎌倉時代からの出来事でした。
鎌倉時代の文永11年(1274)、モンゴル帝国の元軍が対馬、壱岐、肥前を経て、博多湾を襲撃しました。これが、いわゆる「元寇」として知られる戦争の幕開けでした。モンゴル帝国のフビライ王は、日本の鎌倉幕府に対して力づくで侵略を試みましたが、当時の鎌倉幕府の武士たちは文永の役と呼ばれる戦いで元軍を撃退しました。
百道にもその武士たちの勇壮な戦いが繰り広げられました。肥前の武士である福田兼重は、元軍を百道原に追いかけ、百道原の戦いでは豊後の武士である日田永基らも奮闘しました。これらの武士たちの勇気と決意が、百道の歴史に刻まれました。
シーサイドももちは、その歴史的な背景と共に、現代の魅力的なシーサイドエリアとして知られています。歴史と未来が交差するこの場所で、古代の戦いの面影と共に、美しい風景やアクティビティを楽しむことができます。シーサイドももちは、歴史と魅力が調和した不思議な場所です。
百道の歴史の始まり
百道の地名が文献に初めて登場したのは、文永11年(1274)の元寇の時で、当時の発音は「モモジ」でした。この出来事が百道の歴史の始まりと言えます。
第1回目の戦争である文永11年(1274)文永の役の後、鎌倉幕府は元の再侵攻に備え、博多湾沿岸の今津から香椎まで約20キロにわたって石築地(いしついじ)を築きました。そして、弘安4年(1281)に再び元軍が襲来し、これを弘安の役と呼びました。2度目の弘安の役において、日本へ派遣された元軍の艦隊は、当時世界最大規模のものと言われていますが、石築地(いしついじ)のおかげで、日本は苦戦を回避しました。
この石築地は今では元寇防塁と呼ばれ、今津、長垂、生の松原、百道、西新でその名残を見ることができます。西南大学構内には、古代の百道原の面影を感じることができる繁茂した松の木があり、1号館の1階には元寇防塁の遺跡を見学することができます。元寇防塁は大正9年に西新尋常小学校の生徒たちによって発掘され、昭和6年(1931)に国の史跡に指定されました。また、西南大学体育館の近くにも国指定史跡である元寇防塁が残っており、一般の方々も見学できます。
百道の歴史は、これらの重要な出来事と歴史的な遺産と共に、地域の魅力と結びついています。シーサイドももちは、古代から現代までの歴史と文化を堪能できる特別な場所と言えるでしょう。
百道に松原が出来たのは江戸時代です。
百道の歴史は、江戸時代にさらなる発展を遂げました。江戸初期の1618年(元和4年)、黒田長政は博多湾岸の砂浜に、福岡、博多、姪浜の町人にそれぞれ1軒ごとに1本ずつの松を植えさせました。これらの松は「百道松原」や「紅葉松原」として知られ、この美しい景観は地域の特徴となりました。
古図から分かるように、唐津街道の北側には武士の屋敷やお寺が並び、樋井川を挟んで百道の松原が広がっています。松原の中には、後に高取に移転する紅葉八幡宮が見えます。紅葉八幡宮は、福岡藩3代藩主の黒田光之が移設したもので、周辺の地域住民がこの神社を崇め、町の発展に貢献しました。町域が拡大し、中西や大西などの地名が生まれ、西町という地域も栄えました。
明治時代になると、百道松原は国有林となり、1899年頃から民間に払い下げられました。この時期、百道に属する西新町はまだ福岡市に編入される前で、地元の人々からは「あそこは福岡の西の果て」と揶揄されていました。
修猷館が移転してきた
しかし、明治33年には修猷館中学が西新に移転し、学生向けの下宿や商店が周辺にでき、町は賑わいを取り戻しました。
修猷館高校(上図)は、武家屋敷跡地に校舎を建てる計画を出し、旧武士たちはその用地買収に喜びました。この学校からは多くの有名人が輩出し、思想家の中村天風、元総理大臣の広田弘毅、元内閣官房長官の緒方竹虎、小説家の夢野久作、元防衛庁長官の山崎拓、元福岡県知事の小川洋、講談師の神田紅など、政治家や文化人を多く輩出しています。
百道は歴史と文化が豊かに結びついた場所であり、その魅力は多くの人々に愛されています。百道の歴史動画をご視聴いただけるYouTubeもご提供いたしますので、地域の歴史に興味を持つ方はぜひご覧いただきたいです。