西新町の発展には、明治時代から大正時代にかけての重要な出来事が関与しています。特に注目すべきは、明治通りと呼ばれる路面電車の新設、そして百道の松原の取引です。
明治通りは、加布里(現在の糸島市)から箱崎へと続く路面電車の新たな経路として開通し、これが西新町の発展を大いに促進しました。この地域の発展に貢献した一人には、籐金作という福岡県篠栗町出身の衆議院議員がいます。彼は百道の松原を購入し、これが地域の未来を左右する重要な出来事の一つとなりました。
当初、百道の松原は1坪25銭で販売されました。現在の通貨に換算すると、1銭が約14円に相当します。籐金作が購入した松原は約3万900坪で、総額7725円に相当します。しかし、周囲の住民からは高すぎると評され、彼の購入には疑念が抱かれました。
しかし、西新周辺の発展に伴い、大正9年(1920)には1坪9円10銭という高値で取引され、総額28万1190円にまで上昇しました。この価格の急上昇に、籐金作本人も住民も驚きを隠せませんでした。
百道松原の一部を含む広大な土地は、後に紅葉八幡宮の移転とともに九州電灯鉄道株式会社(後の東邦電力)に譲渡され、国有地だった百道と西新周辺は民間の力で電気、軌道、不動産業が発展し、現在の街区の形態に近づいていきました。百道松原は民間への払い下げだけでなく、国有地としても重要な役割を果たしました。