キャナルシティ横の博多川沿いに中洲の清流公園があり、公園には高さ10mほどの石灯篭が建っています。よくみれば「魚市場」と彫られ、何やら曰くがありそうなので、調べてみるとこの石灯篭は、最初からここに建てられたのではなく、元々は住吉向島遊園地内にあったものです。
住吉高灯篭とは
那珂川沿いの住吉土手を東京の桜の名所向島に真似て、博多の向島にしようと、せいもん払いの創始者で博多商人の八尋利兵衛(やひろりへえ)や看板屋の平川梅吉らの発案で寄付金を集めて、明治26年に土手の両側に桜、柳千本を余りを植えました。
そして約4年後の明治30年についに現在のキャナルシティ博多の敷地内に「住吉向島遊園地」を開園するため、相生検番芸妓や高砂連によって賑やかに地鎮祭が行われた。
さらに明治32年(1899年)には、遊園地の敷地内にあたるキャナルシティと下照姫神社が建つ現在の祇園町になる瓦町口の橋のたもとに住吉宮高灯篭が建てられました。
この高灯篭は、本来は遣唐使を導くための篝火(かがりび)として利用するのが目的なのですが、最古の灯台があるいわれる大阪の住吉神社の高灯篭を真似て建てられたようです。
しかし、それはあくまで建前で、本当は遊園地の造成に寄付金を出してくれた店舗の広告塔としての目的があったようです。
こうして博多で有名な石工、国松大次郎、上野市兵衛が手がけ、灯篭の下部四面には当時の福博を代表する商店や料亭など128名の広告を掘り込みました。
一番の出資者である「魚市場」の名が大きく刻まれ、よく見ると、当時呉服店だった「岩田屋」の名前も刻まれています。
後に、住吉土手の木々(きぎ)も朽(く)ち果て、人家も建て込んで昔の面影はなくなり。戦後、この灯籠があったキャナルシティ周辺に闇市やスラム街が勝手に建てられ、埋立てで地盤が弱かったため灯籠も傾いて倒壊するおそれがあり、ついに高灯篭も邪魔者扱いにされて、昭和36年(1961年)中洲1丁目の清流公園内に移され、何事もなかったかのようにいまも健在です。
ついでに紹介しておきますと、この八尋利兵衛なる博多商人は東京で観た隅田川花火大会をヒントに、大正6年(1917年)、中洲の那珂川で花火大会を開催しており。この花火大会が後の「西日本大濠花火大会」へとつながっていったのです。
まあ、豪傑で当時は結構なアイデアマンだったようですね。
会いたかったな~(笑う)