福岡市博多区千代3丁目の御笠川沿いに「濡れ衣塚」という石碑が建っています。平安時代のある日の晩に戦国武将の愛娘が濡れ衣を着せられた悲話の語源の由来と物語が刻まれています。
天下統一を狙う戦国武将を震撼させたのは、鉄砲、弓矢ではなく、濡れ衣という諜報戦略でした。
「濡れ衣を着せられる」の語源と歴史を解説。「濡れ衣」について語源や歴史を動画で解説しました。
濡れ衣とは
「濡れ衣」とは、簡単に言えば白を黒にする、つまり無実の罪を有罪に仕立てるために、
根も葉もない噂を実(まこと)しやかに表現するものです。
現代風に言えば「冤罪」。
新聞、テレビでも時々、冤罪事件が報道されていますので、ご覧になった方も多いと思います。
もし、あなたが「無実であるのに犯罪者として扱われてしまう」ようなことを考えれば、とっても怖いことです。
このような事態になることを「濡れ衣を着せられた」といいます。
実際に、戦国時代にさかのぼっても「濡れ衣を着せる」「着せられる」と言った謀略は枚挙にいとまがないほど
天下を取るため親や子供、味方を冤罪にするための手段として使われていたのです。
この「濡れ衣」ですが、博多の町が語源の舞台になっているのはご存知でしたか?
貝原益軒の『筑前国続風土記』に濡れ衣についての伝説が残されているので紹介します。
聖武天皇の時(724年~49年)に、佐野近世(ちかよ)が筑前守(ちくぜんのかみ)として、妻と春姫を伴い京の都(みやこ)から、福岡に赴任してきました。
もともと、病弱だった妻は死亡することになり、春姫の養育をまかせるために後妻を迎えました。この後妻は近世の一女を授かるのですが、家の実権を我が物にするために、先妻の春姫である春姫を恨み亡き者しようと企むのでした。
後妻は、博多湾の一人の漁師に目を付け、その漁師に金品を与えて、服従させることにしました。
そして、ある日の晩、漁師に「お殿様の大切な釣り衣を春姫が盗んでいる」と近世に告げるように命じたのです。
続きは動画でごらんください。