博多は太平洋戦争終戦まじかにおいて大規模な空襲を何度も受けました。そのため空襲による家屋の火災延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路が造られました。
だから博多にはいくつかの疎開道路があります。土居通りもそのひとつだそうですが、「疎開道路」ときちんと標識があるのはここ博多区上呉服町の疎開道路です。
戦争遺産として疎開道路
この葛城地蔵尊を横切る道路が疎開道路と言われ、大博通り、地下鉄呉服町駅と祇園駅のちょうど中間あたりから右に入り、途中で左に曲がって昭和通りまで抜けるこの道路、周辺の道路と比べてここだけ道幅が広いのです。
米軍の空襲対策として、建物の延焼を防ぐために一部を「疎開」させ、幅の広い道路を作り空襲による被害を食い止める策を各自治体へ命じて、作られたのがこの疎開道路です。
呉服町は古くからの商業地であり、伝統的な木造建築の日本家屋が密集し、一度火の手が上がると周囲への延焼を止めることが難しいエリアでした。
そこで、福岡市はこの呉服町にあった建物を一部「疎開」させ、幅の広い道路を作ることで延焼を食い止めることにしたのです。
ではなぜ呉服町のこの場所を疎開させたのでしょうか。
それは聖福寺の存在です。
当時の計画では聖福寺の境内を貫き旧博多駅へ続く直進道路にする予定が、聖福寺に反対されて道路を曲げて現状の姿になっています。
終戦後、この道路上には30戸のバラックが建つようになり、近くにミニキャバレーや鮮魚店、酒店があったそうです。
そしてこれらのバラックを立ち退きさせて、現在のような姿になっています。