電車の敷設でできた道筋に渡邊与八郎という商人の名前をつけた福岡でただひとつの町名です。
博多電気軌道株式会社は博多の町を一巡する博軌電車の施設を計画し、第一期工事として築港から因幡町を経て、警固、住吉を通り博多駅に至る約3キロが完成。
当時、天神から博多駅まで、田んぼでばかりで電車を通しても乗るのは狸かキツネだろうと言われたのですが、電車を通す発案者だった渡邊与八郎の読み通り、発展していきました。
渡辺通りの名が付いた商人・渡辺与八郎さんは呉服商「紙興」のオーナーだった人で、九大病院の誘致や柳町遊郭の移転、路面電車などに寄与しており、渡辺与八郎がいなかったら、今日の天神の発展は遅れていたともいわれています。、
現在の大丸と西日本新聞が入っているビルも西日本渡辺ビルといい、この渡辺与八郎の会社が所有する一連の不動産と同じくビル名に「渡辺」が入ります
念願の電車を開通した一か月後の明治44年10月29日に46歳の若さで急死しました。
(運転を開始したのが明治44年10月1日です)
下警固法印田(現在の博多大丸・西日本新聞社の位置))から住吉六月田(むつきだ)までの電車道の両側は、たんぼであり、今の新川橋のある渡辺通り5丁目から新柳町の停留所が見えていたそうです。
当時は今のようにホテルニューオータニ博多、九州電力本社(通称・電気ビル)、BiVi(ビビ)福岡などなかったし、見通しがよかったのでしょう。
そういえば、サニーがある真ん前に高山質店の看板が建っている場所かその横にですが、昔はここに「満腹食堂」があってですね、独身時代ですけど会社帰りは、ここに寄って夕飯を食べて帰宅していました。
その時は、まだサニーもなかった。
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