御供所町は寺の多い町

博多区

御供所町は、筥崎八幡宮に供え物を捧げる歴史があることからその名が付けられました。
寺院が密集する地域として知られています。
貝原益軒の著作「筑前国続風土記」には、この地がかつて家数20軒で構成されていたことが記されています。

この町は、寺町としても知られ、多くの寺院が集まっています。
特に、日本で最初の禅寺である聖福寺や、博多の豪商、神屋宗湛の墓、徳川時代の密貿易で知られる伊藤小左衛門、黒田家の家臣や筑紫の侠客大野仁平の墓がある妙楽寺など、歴史的な墓地が点在しています。
聖福寺

明治22年の福岡市市制施行時には、78軒の家があり、人口は392人でした。
この地域は、東長寺を含む博多を代表する寺院が集中しており、空襲を免れた古い町並みと寺院が今も残る貴重な地域です。
また、御供所町と上呉服町の境には、かつて関西歌舞伎を上演していた芝居小屋「教楽社」がありましたが、明治40年には東公園への移転で取り壊されました。

その跡地には御供所小学校が建てられ、1998年には周辺の複数の小学校と統合されて博多小学校が設立されました。
御供所小学校
御供所町はまた、山笠発祥の地としても知られ、承天寺をはじめとする由緒ある寺院が御供所通り沿いに位置しています。御供所通りは、追い山が走るルートとしても使用されています。この地域の豊かな歴史と文化を背景に、訪れる人々に独特の体験を提供しています。

博多を外敵から守る寺院

博多が外敵から守られるために寺院が建てられた理由の一つには、その地理的・戦略的位置があります。博多は古来より、日本への主要な玄関口として栄え、多くの外国船が来航する国際貿易の中心地でした。このため、外国からの侵攻や海賊の襲撃に対して非常に脆弱であり、防御策が必要とされました。

寺院を建てることによる防御の理由は、単に物理的な壁や要塞としての機能だけではありません。寺院は、地域コミュニティの精神的な支柱としての役割も果たし、人々の士気を高め、結束力を強化することで、外敵に対する抵抗力を内側から築くことができました。また、仏教の教えが持つ非暴力と平和の精神は、外敵との対話や和平の道を模索するうえで、重要な価値観となり得ました。

さらに、寺院は外敵に対する「霊的な防壁」としての意味合いも持っていました。寺院や神社には、その土地を守護する神仏が祀られており、これらの聖地が外敵からの保護の象徴となることで、外からの攻撃に対して霊的な抑止力を提供したとも考えられます。このように、寺院は博多を物理的、精神的、そして霊的に守るための多層的な防御線として機能したのです。

この戦略は、外敵からの直接的な攻撃だけでなく、文化的な影響や宗教的な浸透による内側からの変容も防ぐ目的がありました。寺院が集積することにより、博多の住民は自らの信仰と文化を守りながら、外部の脅威に対して一致団結する強固な社会を築き上げることができたのです。

歴史発見

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福岡県各地を歩いて歴史の一歩奥へ掘り下げて史実なりを紹介しています。歴史に興味があって始めた仕事も気が付けばかなりの年数が経っており、それならとブログや動画にして、後世の何らかの役に立てればと厚かましくも思っています。

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