博多には時代背景を映し出す珍しい名前の橋がいくつか架けられています。博多六町の筋の東、石堂川(御笠川)に架かる橋、
博多の公道であり、黒田長政入国後に架けられました。
はじめは粗末な木橋でしたが、宝暦5年(1755)に土橋となっています。
しかし、大雨による出水ごとに満水した大樽を橋上に並べて流水を防いでいました。
石堂橋の東には新茶屋(千代)北には柳町(大博町)があります。
石堂橋を中に、わずか数町隔てて二つの花柳界の巷(ちまた)でした。
遊客はこの橋で「行こ帰ろか新茶屋に寄ろうか、ここが思案の石堂橋」と謳っていました。
石堂橋を舞台にした「博多思案橋」が舞台公演されて、出演は森繁久彌、山田五十鈴、浜木綿子(はまゆうこ)他で博多情緒を公演して話題になりました。
舞台で演じられた思案橋という橋は博多にありません。
思案橋の名がつく橋は各地にたくさんあります。
調べてみれば、博多同様に、江戸吉原の思案橋をはじめ、みんな色里近くの橋のようです。
遊里での遊びは楽しいが、一抹の気兼ねは誰にでもあります。
目指す女が喜んでくれるだろうか? 女に騙されているのではるまいか、また来たかと笑われはしまいか、親や妻子にすまない、今日は辞めようか、家に戻ろうか。あれこれ思案を重ねてそおげく、渡らずにはおれぬ所から思案橋の名があります。
石堂橋が架かる石堂川は比恵川の下流で、元亀(げんき)(1570~1572)のころ立花城の城主だった立花道雪が博多を守るために臼杵安房守鑑鎮(うすきあわのかみあきつぐ)に命じて博多の南部となる今の萬行寺の裏あたりから、現在の厄八幡がある東側まで横20間(約40m)余りの大きな房州堀りを作らせた時に、堅粕あたりから左折して、博多と住吉との間を流れて那珂川と合流していた比恵川をまっすぐに承天寺、聖福寺の裏手の松原を貫通させ川を造りました、後にこの川を広くしたのが石堂川です。
房州堀の詳細については動画「祇園町と房州掘り」をご視聴ください。