足利尊氏と戦乱の香椎
尊氏は嘉元3年 (旧暦)(1305年)足利宗家7代当主:足利貞氏の次男としてて生まれました。
足利尊氏は、元弘(げんこう)3年(1333年)鎌倉幕府・北条守時の命令で、後醍醐天皇方の討幕の兵を鎮圧するために京都に向かいますが、その途中で幕府を裏切り、天皇型に味方して京都にあった幕府の出先機関だった六波羅探題を滅ぼしました。
一方、新田義貞は鎌倉を攻め落とし、ここに鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉幕府からの政権を取り戻した後醍醐天皇は京都に入り、天皇が自ら行う政治である親政を目指して、建武の中興(けんむのちゅうこう)とも言われ、「建武の新政(けんむのしんせい)」を開始したのです。
尊氏は、最初の名を高氏(たかうじ)といい、建武中興(けんむちゅうこう)に国や君主に対して功績が認められ、後醍醐天皇の名である「尊治(たかはる)」の一字をもらい尊氏と改名しました。
後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒して建武中興に貢献した尊氏でしたが、討幕後は天皇と対立するようになっていきます。
建武2年(1335年)北条高時の子・時行が幕府再興を賭けて信濃(現在の長野県)で兵を集め、足利軍を打ち破って鎌倉に入りました。
時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使(そうついぶし)と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否します。
この要請拒否が、尊氏の野心が反乱への引き金にもなったのです。時行討伐に関しては尊氏と天皇の方針に大きな違いはなかったとはいえ、後醍醐天皇はプライドが高く自己中心的、身勝手で大の武士嫌いでした。
そのため天皇が行う政治は公家や寺社を優遇するものであったため、武士たちは不満を募らせるようになります。
そして遂に、政権からの離反を鮮明にして、後醍醐天皇に反旗を翻したから、さあ大変なことになったと、天皇はすぐに新田義貞に尊氏の討伐を命じました。
尊氏は箱根・竹の下の合戦で新田義貞に勝利したものの、翌、建武3年(1336年)京都の戦いで、新田義貞、北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)の連合軍に敗れて、京都を追われ、九州へ落ち延びていきます。
九州に逃れた足利尊氏、直義(ただよし)兄弟は、長門の赤間関(あかまがせき)現在の山口県下関市で、鎌倉幕府討幕運動に加わっていた少弐 頼尚(しょうに よりひさ)らに迎えられ宗像大社の館に入ります。
落ち延びた足利尊氏を時の北朝の武将でもある、宗像大社の大宮司・宗像氏俊(むなかたうじとし)が白山城(はくさんじょう)に受けいれ、ここで英気を養い戦力を整えて、尊氏、直義(ただよし)兄弟は多々良浜合戦に備えるのでした。
そして、後醍醐天皇方の菊池武敏勢が博多に進出したとの報告を受けて、兄弟は宗像大社及び白山城(はくさんじょう)を出陣し、途中香椎宮で休息して頓宮内で軍議を行ったあと、香椎宮に参詣して武運長久を祈りました。
この軍議に参加したのは、当時の社領だった香椎、唐の春、原上(はるがみ)、蒲田、八田、多々良などの農民も参加し、合戦の舞台となる多々良浜の一帯の地形や季節により変化する自然現象などを聞き取り、地の利を生かす作戦を立てたのです。
こうして、
足利軍は多々良川北岸(ほくがん)の高地「陣の腰」に本陣を敷き、対する菊池・阿蘇・松浦連合軍は多々良川南岸(なんがん)に軍を配置して対峙しました。
ここに、「南北朝」の始まりを意味する多々良浜の戦いの火ぶたが切っておとされました。
この時の軍勢は「太平記」によれば、菊池勢3万、足利勢はわずか300足らずとあり、足利勢が圧倒的に劣勢で、尊氏の弟「直義(ただよし)」は圧倒的な兵力の差に自害やむなしという自軍の空気を強く諫めて、「戦は数じゃない」といったかどうかは知りませんが、香椎宮を出立しました。
香椎宮の社殿を通り過ぎようとしたとき、ひとつがいの鳥が杉の葉を一枝くわえて、直義(ただよし)の手の甲の上に落としました。すると直義(ただよし)は、これは香椎宮の神が下りたと敬礼して、その小枝を鎧の左袖に差して戦場に向かいました。
この「綾杉」は神功皇后が三韓征伐の時に鎧の袖に差していたともいわれる香椎宮のご神木として境内にも建っており、観覧することができます。
その神功皇后のご加護を受けたのでしょうか?
いざ合戦に入った瞬間に、直義の頭上を越えて白羽の鏑矢(かぶらや)が、ビュンビュンと鳴り響き、敵陣めがけて飛んで行きました。
士気が高まった足利軍は怒涛の勢いで、菊池の大軍に立ち向かっていきます。
【春風に修正)または「春の嵐」に
北の高地に陣取りしたのも雲が味方したのか、折からの吹き降ろす北からの突風に風下の菊池勢は苦戦をします。
しかも、何を考えたか松浦軍が菊池勢を離反し逃げ帰っていくのです。
そして、奇跡的な勝利を得た足利尊氏は香椎宮のご利益に敬意を払い、粕屋郡多々良(現在の香椎宮ある場所)に800町の神領(しんりょう)となる土地を寄進しました。
こうして多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は、太宰府に入り九州支配の基礎固めを行い
九州で大軍を組織することに成功し、建武3年(1336年)4月、博多の港から出港し、京都に向かい東上を開始しました。
勢力を盛り返した足利軍は道中、新田義貞の前進基地だった備中(岡山県)の福山城を攻め落とし、さらに摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)の湊川の戦いでも天皇方の楠木正成を破り自刃させます。
この楠木正成は無念の自刃に追い込まれたのですが、この湊川の戦については、別で詳しく紹介します。
こうして尊氏は再び政治の表舞台に立つことになりました。
尊氏は北朝(ほくちょう)となる持明院統(じみょういんとう)の光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し、京都の室町に室町幕府を開きました。
一方の南朝・後醍醐天皇は、奈良・吉野に逃れ、これ以降60年にわたる内乱が続く南北朝時代が始まったのです。
暦応 ( りゃくおう )元年(1338年)、足利尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に命じられ、念願の武家の棟梁となり、名目共に室町幕府の政治を進めていくのですが、内乱のきざしはくすぶり続けていきました。
この南北朝時代の抗争を一つにまとめたのが、尊氏の孫になる足利 義満(あしかが よしみつ)でした。のちに足利義満は応安 ( おうあん )7年(1374年)香椎宮に使いを遣わして、南北朝の統一を成し遂げられるように祈願しています。
その後、室町幕府は15代足利義昭(あしかがよしあき)まで続くのですが、1573年に織田信長により滅ぼされます。
戦国時代になると、大友氏から香椎宮の社領を没収されたり、天正14年(1586年)島津氏により、香椎宮及びその周辺の郡部は焼失してます。
さらに秀吉の九州平定による太閤検地で社領が全て没収されるなど、戦乱に巻き込まれた香椎宮の衰退は1801年に第十代福岡藩主・黒田 斉清(くろだ なりきよ)により再建されるまで続きました。
多々良の古戦場の大半は福岡流通センターの敷地になっており、その西口付近には多々良潟の碑」という、モニュメントが建っており、合戦の歴史が紹介されています。
また、ここから数十メートル先には、数千人におよぶ戦死者を祀ったとされる「兜塚(かぶとづか)」があり、当時の血生臭い歴史をわずかに感じることができます。
【鎌倉幕府末期の福岡】足利尊氏が鎌倉幕府を離反して室町幕府を開くきっかけになった香椎宮と多々良浜の戦い。
朝廷が南朝・北朝にわかれ、激しい対立を繰り返した南北朝時代。公家や豪族、寺社などを巻き込み、味方につけるため様々な策略が飛び交いました。
日本の歴史の中では特異な時代の転換に大きな意味を持った多々良浜の戦い。
その主人公の一人となった足利尊氏と尊氏復活を守護したとされる香椎宮の側面にもスポットを当てた動画をアップしました。