博多のお座敷文化のひとつでもある「芸者さん」を紹介します。
芸者さんといえば東京の浅草、京都の祇園が全国的にも有名ですが、福岡にも「博多芸妓(げいぎ)」と呼ばれている芸者さんたちがいます。
十日恵比寿や「博多どんたく」でも、あでやかに舞う芸妓(げいぎ)さんをご覧になった方もおられると思います。そのあでやかな姿には、俗世間から離れた特別な人という位置づけで、遠目で見られている人も多いようです
というわけで、美人の宝庫と言われた福岡で誕生した博多芸妓について解説します。
芸妓の歴史
お座敷で、舞や三味線、長唄などの芸を職業とする人が登場したのが江戸時代です。ルーツをたどれば、もっと古くから存在していたのでしょうが、公に認められて職業として成り立ってきたのは、豊臣秀吉の安土桃山時代からです。
江戸時代には男芸者と女芸者がいました。江戸時代には大阪、京都で芸者と言えば男性である幇間(ほうかん)といわれる太鼓持ちでした。女性は芸子といわれていました。
太鼓持ちというのは、宴席やお座敷などの酒席において主(あるじ)や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業です。
太鼓持ちの歴史は女性の芸者よりも古く豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士で、即興の踊りや唄で見事に秀吉のご機嫌を取り直したことから、幇間の始まりとされています。
明治時代になると、男性の幇間(ほうかん)を芸者と言わなくなり、全国的にも女性芸者が芸妓(げいぎ)と呼ばれるようになりました。
芸妓は、芸者と呼ばれ宴席で舞踊や三味線などを披露し、接客を兼ねて客をもてなすのを仕事としており江戸時代の中ごろから盛んになった職業の一つでした。
博多に芸妓が登場したのは江戸時代
博多に芸妓が登場したのは江戸時代の中ごろ以降といわれています。このころ九州における国際貿易港として発展が目覚ましかったのが長崎です。
長崎には江戸の吉原や京の島原などと並び称された丸山遊郭があり、円山一帯は花街として栄えていました。
一晩の稼ぎが多くなる唐人屋敷や出島に出入りすることを丸山遊女のみが許されていたのですが、話芸に富んだ女性が好まれるとあって、遊郭や茶屋はわざわざ大阪の芸妓を呼び寄せるほどでした。
大阪の芸妓が長崎の茶屋などに招かれお客さんを楽しませていましたが、長崎での滞在は100日以下と定められていたので、一時的に博多に行って稼ぎ、再び長崎へ戻っていました。
その中から、博多に定住する芸妓が出てきて、それが博多芸妓のルーツになったといわれています。
この頃の博多には「柳町遊郭」という置屋があって、ここで働く女郎も芸妓と呼ばれていました。こうした遊郭にいる芸者を廓芸者と呼び、遊郭に属さない芸者を町芸者と呼んでいました。
昔は玉の輿に乗れた
明治、大正から昭和初期にかけて、芸妓になる女性は、芸妓もその他遊女同様で、前借金を抱えた年季奉公が多く、当時の花街は人身売買や売春を行っていたことは否定できません。
こうしたことも置屋が繁盛していた理由の一つで、芸妓という身分が男の欲望で売り買いされており、芸妓はそれでも必死に生き抜いていかなければならない当時の現実がありました。
しかし、宴席でお客に気に入られればタニマチといわれる旦那がつくようになります。つまりパトロンやスポンサーです。その土地の顔役だったり、財界人といわれた人がお気に入りの芸妓を宴席に呼んで祝儀を渡したり、着物や宝石などの贅沢品を買ってくれていました。
美人で芸も一流な芸妓に社交上手も多く、政財界の大物に愛されて、歴史を動かした大物政治家だった伊藤博文、原 敬(はら たかし)、板垣退助、犬養毅など政治家の正妻(せいさい)になった女性もいます。
まさに花柳界の玉の輿になったわけです。
この続きは動画をご視聴ください。