福岡歴史に残る人物ということで、博多の豪商3傑といわれた3人の人物にスポットを当てて、商業都市博多の歴史を深堀しました。
室町時代(1338年~1573年)に博多は商業都市として、国際港として栄え有力な博多商人を輩出しました。
室町時代から、貿易の事実上の実権は博多商人が持っており、幕府や豪族たちは、博多商人を己の傘下におくことは、商業都市博多を領有することにもなると考え、博多では大内氏、大友氏、島津氏らによる勢力争いが度々起こっています。
この室町時代はいわゆる日宋貿易が盛んなときで、この時に活躍した博多商人の代表格は「宗金」という人ですが、誰でもお金に目が眩む(かねにめがくらむ)ようで、日宋貿易に手を出したのは、商人だけではありませんでした。
当時お金と土地を持ってた領主と言われた宗像神社(むなかたじんじゃ)、香椎宮(かしいぐう)、崇福寺(そうふくじ)、聖福寺(しょうふくじ)、承天寺(じょうてんじ)、妙楽寺なども大々的に貿易をやっていたそうです。
早い話「寺銭稼ぎ」みたいなものです。
とは言え、海外貿易が盛んになりだすと、商売には素人同然ですから、とても坊さんでは商売のプロである商人には立ち向かうことはできません。そこで、商人たちに代行するようになり、次第に商人たちが貿易の実権を握っていくようになりました。
海外貿易の実権を握り博多に君臨してきた、今日紹介する3人の豪商は、博多を近代都市へと進めた第一人者と言ってもいいでしょう。
動画で見る博多豪商人3傑の人物像
島井宗室(しまいそうしつ) 1539年~1615年
博多の豪商3傑の一人として、天文8年(1539年)に博多で生まれました。本名は成勝(しげかつ)といい、博多豪商三傑の一人とされた神屋宗湛とは親族関係にあたります。
島井家は、藤原北家(ふじわらほっけ)の血筋をひいており、代々博多で練酒(ねりざけ)の酒屋(さかや)や金融業を営んでおり、1523年大内氏が明において(当時の中国)寧波の乱(ねいはのらん)を起こし、東シナ海の貿易を独占すると、それに乗じて、中国や朝鮮とも日朝貿易(にっちょうぼうえき)を行い巨万の富を築きました。
宗室が家督を継ぐようになると1573年(天正元年)に、当時博多を支配していた大友宗麟に軍資金を貸付けしてから、宗麟から様々な特権を得ることになり豪商としての地位を確率していきました。
また、博多のみならず周辺の諸大名にも金銀を貸し付けており、
金を借りる側の弱音に漬け込む商売の強みは、時代が変わった今でも変わりませんね。
その後、信長や秀吉との知遇を得るために茶人としても研鑽を積み、京都の大徳寺にて剃髪、出家して、名前を成勝(しげかつ)から宗室へ改名しました。
一説によれば、堺の豪商人・兼茶人でもある千利休の生きざまを真似たためともいわれますが、定かではないものの、もう一人の堺の豪商・茶人でもある津田宗及にも近づきました。
お金を稼ぐ傍ら、政治的な特権を得ようと、信長に接近するため画策(かくさく)していたところ、天正6年(1578年)日向市における耳川の戦いで大友氏が島津氏に敗れることになります。
当時は、大友氏よりだった宗室は、島津氏から商売の利権が奪われ命も狙われると、危険を感じて、織田信長の保護を受けるがために謁見に奔走します。
そして、天正10年(1582年)5月に同じ博多の豪商・神屋宗湛と共に滋賀県の安土城へ上洛しました。
信長は、宗室らを保護する代わりに、宗室が所有していた天下三肩衝(てんか・さんかたつき) の一つである名茶器・楢柴肩衝(ならしば・かたつき)。(現在の価格で数億円といわれる)
これを信長に譲ることと、諸外国との貿易を前提として、その利益の一部を差し出せと要求したのです。
宗室や宗湛らは、「えっ!」と驚くものの、背に腹は替えられぬ忸怩(じくじ)たる思いで要求をのんだそうです。
そして、信長保護の元に身の安全を確保しや後に、再び京都本能寺で信長と謁見し、そのまま宿泊したのですが、その夜に本能寺の変に巻き込まれることになったのです。
この夜は、神屋宗湛も宿泊しており、明智光秀の夜討ちに驚いた宗室は逃げ去る際に、本能寺の居間に掛けられていた弘法大師空海直筆の千字文(せんじもん)を持ち出しています。
持ち出すと言えば聞こえはいいが、早い話「かっぱっらった」のです。
ただじゃ転ばないというか、なかなか商売人ですよね
持ち出した「千字文」は、博多区の東長寺に保管されています。
信長の死後、天下人(てんかびと)となった秀吉に謁見を許され、持参したお土産が効いたのか、大阪府の大部分と、京都府の南部、兵庫県の南東部、奈良県の全域、さらに博多、対馬に至る交通路を築き上げ、中国、朝鮮との貿易を行うことを許されて商人としての栄華を極めていき、秀吉の九州征伐にも協力しました。
そして、秀吉から浜口町(現在の博多区中呉服町)に100坪以上の土地を与えられ、自宅を新築することにしました。
自宅の周りを囲む塀(へい)は博多の合戦で荒廃し、廃墟になったときの焼け跡に残っている、焼石(やけいし)や、焼け瓦を使って、土に練り込んだ独特の仕様にしました。
この塀は今でこそ、「博多塀(はかたべい)」として、博多の文化遺産として扱われていますが、ゴミ同然の石や瓦を使った「けちんぼ」「節約家」魂が発揮された一面を垣間見ることができます。
この塀は昭和の空襲後も浜口町に残っていたのですが、ビル建設により取り壊されようとしたため、塀の保存運動が起こり、昭和45年に櫛田神社境内に移し再現され、現在も見学することができます。
博多塀は、博多区住吉にある楽水園や、御供所町の「聖福寺」や「妙楽寺」等に復元されています。いずれも博多駅から徒歩圏内ですので、ぜひお散歩がてら、ご覧になってください。なんとも感慨深いものがあります。
さて、
秀吉は、天下を統一した後は、今度は朝鮮征伐を考えて、天正18年(1590年)6月に宗室を朝鮮へ市場調査に送り出しました。
秀吉の内名を受けて、6か月にわたり、朝鮮の兵力、道路などを内偵し、遠征の手間暇が大きいのに比べて得るところは少ないと征韓(せいかん)の不利なるを諫言しました。
つまり、朝鮮征伐は何のメリットもないと報告したのですが、これには宗室の商売人として思惑があったのです。
つまり、戦争になれば、戦争特需で儲かるより、秀吉に協力する軍資金や人力を比較した時、商売はマイナスになる方が大きいと計算したようで、なんとか朝鮮出兵をやめさせようと、朝鮮国王と戦争回避を図る折衝を行なったのですが、これに失敗します。
秀吉の派兵後も撤兵を強硬に主張するのですが、ついに秀吉の逆鱗(げきりん)に触れて、とうとう蟄居を命じられることになったのです。
それでも只では転ばない宗室は、蟄居させられた後も裏で手を回し、何食わぬ顔で対外戦争の特需景気を手にしていたようです。同時に、博多は兵站基地(へいたんきち)として、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり秀吉の「唐入り」を支え、これを機会に博多は近世都市としての一歩を踏み出していきました。
蟄居を許された後は、石田三成に近寄り、日本軍の後方兵站役(こうほうへいたんやく)を務める一方で、明との和平の裏工作を行ない、その後はまた海外貿易により、豪商として莫大な富を蓄積し、諸大名に金を貸し付け、上方では貿易で手に入れた珍品や茶器などを売り利益を得ました。
しかし、江戸時代に入ると宗湛と同じく家康からは冷遇されました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に、黒田長政が福岡に入ると、福岡城建設に要する資金や材木、名物茶器などを寄進するなど協力を惜しみませんでした。
そして、元和元年(1615年)8月24日に自宅にて77歳で死亡。
宗室は遺言状に聖徳太子の憲法に倣って(ならって)17条の遺訓を残しています。
これには商人としての信条が凝縮されており、日本最古の商家(しょうか)の社訓のルーツとなっています。
この遺訓の結びに「双六は勝とうと思って打ってはならない。負けぬようにして心して打て」商いの神髄は「勝つ」ことではなく「負けない」ことだと書いています。
お墓は博多区千代四丁目の崇福寺にあります。
神屋宗湛
天文20年1月1日(1551年2月6日) – 寛永12年10月28日(1635年12月7日)
神屋宗湛は、島井宗室より一回り若く、冶金錬金術(やきん・れんきんじゅつ)の輸入元祖といわれた神屋寿貞(かみやじゅてい)の孫で、天文20年1月1日(1551年2月6日) 博多で生まれました。
ただ、文献によれば、出身が京都ではないかとか宗像とか諸説ありますがはっきりわかりませんので、あえて博多にしました。
お祖父(おじい)さんの神屋寿貞(かみやじゅてい)という人は、島根県の石見銀山(いわみぎんざん)を開発し、採掘した銀を海外へ持っていき、輸入品に変えて大儲けした人です。
縁戚になる島井宗室より、年下だったが、子供のころから父の紹策(しょうさく)の影響を受けて、海外貿易に興味を持ったとされます。
そのころ、博多町人の多くは相次ぐ戦乱を避けて近郊へ疎開しました。神屋宗湛の一族もその例外ではなかったようです。16歳のころ、父、紹策(しょうさく)とともに戦乱を避けて唐津に移りました。
唐津には朝鮮貿易商人が多く住んでいたり、大小の海賊の根拠地でもあったことは記録があるので、唐津一帯は、貿易、密航などの人や貨物の往来が激しかったところです。
また、神屋家もこの頃、中国や朝鮮へ船を出して、盛んに海外貿易をしていたという言い伝えや文献が残されており、そのころの宗湛も16歳でありながら、貿易に近い行為を営んでいたに違いないと思います。
当時の貿易というのが、今のような物流じゃなく、切ったり殺したりという人間の戦いが商売を左右していましたから、あくどい商売も当然やっていたことは推測されますね。
当時は大内氏と大友氏が博多を支配していましたが、そこへ島津氏が割り込み、とうとう博多の町は戦争の焼け野原となるのです。
敗退した大友、大内側についていた、宗湛は宗室らとととも織田信長からの保護を受けに滋賀県へ上洛し謁見をしました。
身の安全を確保し、ひと段落した後に宗室ととも京都の本能寺で謁見を許され、宿泊した夜に本能寺の変に巻き込まれました。
さあ、大変だ、逃げろ~と一目散に逃げ出そうとする、そこで「ハッと」気が付き、そうだ!今のうちにと脱兎のごとく居間に飛び込んで、居間にあった信長愛蔵の13世紀の禅僧、牧谿(もっけい)が描いたという図巻(ずかん)『遠浦帰帆図(えんぽ・きはんず)』(現・重要文化財)を、ガサっと持ち逃げしたのです。
その図鑑は現在は、京都国立博物館に所蔵されています。
宗室同様に、ただじゃ死なれんという商売人根性がいかんなく発揮された場面だったようですね。
信長の死後は、秀吉にすり寄っていきます。
商売人というのは、まずは自分の足場を固める、そのためには自分のことしか考えて行動しないと生き残れない世界ですから、当然の行動だと思います。
それに、財産家の宗湛ですから、欲の深い秀吉が放っておくはずがありません。
当時の秀吉は、日本の金を独占する勢いで金の茶室を作るなど、とにかく宗湛も敵わないほどの資金を持っていました。
宗湛は秀吉のご機嫌を取る一方で、秀吉から資金援助を得ようと画策しています。秀吉は秀頼でその見返りを期待して相当な金を貸し付けており、宗湛はこれを元手に豪商へと成りあがっていきます。
島井宗室は、秀吉とは距離は置いていたものの、宗湛は秀吉べったりでした。秀吉が白い物でも黒と言えば、右にならうほどの至近距離にいたわけです。
宗湛は秀吉に可愛がられる一方で、さらに利権を得るための欲望が膨らんでいきました。
神屋家はもともと、茶道や書道などの造詣が深い文化的雰囲気の中で育っていますから、茶人としての生き様にも興味を持っていました。
そして、商人としても、より大きな財を築くためには、上流武士との交流が必要でした。だから、商人として接すれば、武士から警戒されるために、茶人を表の顔にしようと考えたのです。
短気で激しい性格の自分を諫める意味も込めて侘び寂びの世界に入ろうとしたかもしれません。
島井宗室同様に、京都の大徳寺へ行き、古渓宗陳和尚(こけいそうちんおしょう)に、自ら剃髪得度を申し入れ、町人身分から僧籍に身を置くことにしたのです。
こうして、秀吉との謁見も許されることになり、持参した金銀財宝に名茶器、掛け軸といったお宝の山積みが効果抜群で、居並ぶ堺商人や奈良の豪商らを前にして、初見にかかわらず最上席に座り、「筑紫の坊主」と呼ばれ、秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後、博多商人として地位を不動にしたのです。
そして、秀吉の命を受けて、小西行長らと共に、荒廃した博多の町の復興に協力します。
いわゆる太閤町割りです。
町割りは東南の太宰府を上手として、西北(せいほく)の海辺【博多湾)を下手として、全体を十町(1,1キロ)」四方として、縦横に小路(こうじ)を割りつけました。
現在の奈良屋町と下呉服町を区切る縦筋を起点として、
そこの起点を一小路(いちしょうじ)といい、今の大博通りになります。
太閤町割りについては、ゴンちゃんの別の動画でも紹介しています。
概要欄にURLを記載していますので、よかったらご視聴ください。
宗湛は町割りの作業に精力的に動き、町割りの測量に使った間杖(けんじょう)は、秀吉を祀ったとされる豊国神社に奉納されていましたが、太平洋戦争の空襲で神社が焼失しました。
現在では、櫛田神社と筥崎宮にレプリカが保存されています。
一時は見学できたのですが、今はどうかわかりません。
なお、豊国神社は、奈良屋町に再建されて実在します
町割りが完了すると秀吉は、町人たちが自由に商売をするための十二か条からなる「定書(さだめがき)」を発行しました。これは楽市楽座のことで、商売に規制は設けないが、団体や組合などをを作って独占するようなことをするな、喧嘩もすることならずといった事や、土地や家屋にかかる税金も免除するから町の発展に励みなさいといた条文です。
また、町割りした区域には武士が家を持ってはならないとしており、博多の都市的発展と商品流通の進展を考えて与えられた公文書でした。
この「常書(さだめがき)」は、秀吉の朱印状といわれ、現在、櫛田神社に所蔵されており、見学もできたようですが、最近はわかりません。
宗湛と秀吉の関係は良好に保たれ、秀吉を自宅の茶室に招いて茶会をしています。
秀吉の朝鮮征伐には、島井宗室は反対していましたが、宗湛の場合は、ある意味「服従」に近い形で、博多を兵站基地として物資両面で協力しています。
まさに「博多に宗湛あり」「宗湛なくして秀吉はなし」「秀吉なくして宗湛はなし」と言われるほどの関係だったようです。
しかし、秀吉の晩年になってくるころには、豪商としての地位が微妙に変化していくになっていきます。
慶長3年(1598年)8月16日秀吉が、この世を去ってから二年後に関ケ原合戦で勝利した黒田考高(よしたか)・長政親子が福岡の新しい領主となり乗り込んできました。
さっそく、宗湛は茶の湯を通じで謁見して、博多の情勢を説明したそうです。その後、宗湛と黒田家の関係は続きますが、病気がちだった黒田考高(よしたか)が亡くなりました。
宗湛はその淋しさからでしょうから、商売人として力が入らなくなり、財界の第一線から退くと急速に終焉を迎えることになります。
秀吉死後、江戸幕府が開かれた後はその莫大な財力から警戒され、遠ざけられました。
茶の湯の縁もあり、宗湛は地元福岡藩・黒田家の御用商人となりますが、幕府は宗湛が黒田家と組んで謀反を起こさないよう、福岡藩に圧力をかけたほどだったそうです。
黒田家も秀吉の手垢(てあか)が付いた、宗湛を遠ざけていたようです。
そして、寛永12年(1635年)にこの世を去っています。
宗湛なき後の神屋家は衰退の一途をたどり、これまでの資金、土地、家屋、財宝などの資産は没収されることになります。
神屋宗湛のお墓は、博多区御供所町の妙楽寺にあり、墓石(ぼせき)に「惟清宗湛居士(いせいそうたんこじ)」と刻まれています。
神屋宗湛の屋敷跡は、博多区奈良屋町にある博多小学校の裏門の横にあり、秀吉を祀ったとされる豊国神社と共に現在も見学できます。。
大賀宗九(おおがそうく)1561年~1630年
永禄4年(1561年)大分県中津市の武器商人の家で生まれ、早くから父を失い貧困に苦しみますが、武器商人として一人前になるべく、長崎から中国へ渡り20年以上を海外で暮らし、周辺国との貿易で巨万の富を得ています。
大賀家はもともと、豊後で大神氏(おおがみうじ)を名乗り、大友氏に使えていたそうです。中国で暮らすことになったこの頃、中国人の助言により大賀に改名したそうです。
慶長5年(1600年)に中津藩主・黒田長政が筑前国へ加増移封されると、それに前後して博多の呉服町に移住し、島井宗室や神屋宗湛とともに築城や城下町などの財政上の整備を受け持った。
宗室や宗湛は家康や江戸幕府から警戒され遠ざけられたの対し、長政は宗九に対し家康から海外貿易の朱印状を受けさせ、ベトナム、シャム(タイ)、琉球、朝鮮などとの交易により巨万の富を得る。福岡藩筆頭御用商人となり優遇を受られること手助けしています。
さらに、元和7年(1621年)には、黒田長政から褒美として知行地(ちぎょうち)を与えられたが、商人の身分を理由に辞退しています。
知行地をもらうのは名誉なこととはいえ、商売人は束縛されることを嫌いますから、不自由極まりない御家人身分を嫌い、、自由で意のままに仕事ができる実利を選んだのでしょうね。
宗九(そうく)は、寛永7年(1630年)5月70歳で死亡。墓は福岡市博多区の聖福寺境内にあります。
のち大賀家は博多商人の筆頭町人となり、江戸時代を通じて博多部の管理を任され幕末まで続いていきました。
家業は金融業を主とし(金貸し)で財をなした。大名貸しでは肥後細川藩、高鍋藩秋月家などに行っています。
博多商人の家格においては『大賀格』が基準とされる。(博多部は商人のみの街であり、武家が屋敷を持ったり住む事は無く、あくまで武家は福岡側に屋敷地を与えられた)
子孫は廃藩まで博多町人格式の最高位を占めていました。
ということで、博多の豪商3傑と題して、島井宗室、神屋宗湛、大賀宗九を紹介しました。
当時の彼らは今でいう社長であり、社長の仕事である「稼ぐこと」を明確にした波乱万丈の人生だったと思います。
昔と今の商売の形態は大きく変わりましたが、商売人としての矜持、根性、努力は不変ですね。