西公園と言えば「さくら名所100選」に選ばれており、春には約1300本の桜が咲き誇り、多くの花見客でにぎわいます。
なので、西公園を知る人は、「桜の公園やろ?」とおっしゃたり、あ~「鶴が泣く神社やね」とか、
また西公園をよく利用する人なら「今屋のハンバーガーがあるとこやろ」と自慢気に言われたり様々な顔を持つ西公園。
標高約48メートル、周囲は約1.4km、市内の公園としてはアップダウンが多く、ジョギングコースに最適なロードというよりもクロスカントリー的要素のあるコースです。
西公園にマイカーで行くなら福岡都市高速1号線で西公園で下車します。地下鉄なら大濠公園または唐人町で下車して、ゆっくり徒歩で15分くらいかな。到着します。
そんな西公園ですが、その歴史を深堀してみると、えっ!と、驚かれる意外なことがたくさんあります。
西公園の生い立ちから
そもそも西公園になる前は、荒津山(または荒戸山)でした。
こちらは1800年ごろの古地図ですが現在の西公園という町一帯は、荒津山の官有、民有の林の中にあって、江戸時代は、福岡市内唯一の村でした。
福岡藩の時代は早良郡鳥飼村から分かれた村で郡奉行(こおりぶぎょう)の支配下にありました。
郡奉行とは江戸時代、各藩に置かれて地方の行政に当たった職名の事なので、今でいう村長さんや町長さんでしょうかね。
博多湾を望む絶景の地で、貝原益軒は筑前国続風土記にもこの山に登れば「心、飛揚し、身 瓢瓢(ひょうひょう)として、あたかも空中にあるがご如し(ごとし)」と書いています。
こちらの動画は、頂上の展望公園から撮影したものですが、都市高速や造船所があり煩雑(はんざつ)とした風景ですが、それでも結構いい眺めです。
だから、当時は益軒が言うように、博多湾はもちろん福岡城やその城下町を見渡せて、結構穏やかで風光明媚な風景が広がっていたのでしょう。
西公園ができるきっかけは、まず荒津山に福岡藩の第2代藩主・黒田忠之が手を入れてからです。
黒田忠之は、山の中にあった金龍寺その他の寺を今川に移し、徳川家康を祀る東照宮を承応(じょうおう)元年(1652年)に山上(さんじょう)に建てています。
東照宮のかたわらには宮司房(ぐうじぼう)として天台宗高照山(たかてるやま)松源院(しょうげんいん)を置き、東照宮の祭祀(さいし)を行わせています。。
どうして、このようなことをしたかといえば、
二代藩主黒田忠之は、自身の狭器と粗暴な性格を憂いた筆頭家老栗山大膳との対立からおこった黒田騒動の当事者でした。
この騒動によって栗山大膳は盛岡南部藩におあずけの身となりましたが、黒田家には何のお咎めもなく、幕府の権力を背景に藩主権力は維持・強化される結果となりました。
そのため忠之は幕府への忠誠をいっそう明確に示していく必要に迫られたのです。そのことを示す行動のひとつが、東照宮の建立したのです。
今見れば、税金の無駄遣いのようなもので、こうした藩主の風習が伝承されて、大政奉還時には、財政の建てなおしに贋金を造ってバレて、処分され270年以上続いた黒田家の福岡藩は幕を閉じています。
そして、明治維新になると東照宮や松源院ともとも取り壊されています。
ただ、東照宮のご神体は警固神社に移され、百年の時を経てこの度、福岡市の文化財に指定されました。
源光院
話は、ちょっと戻りますが忠之は東照宮を承応(紹鴎)2年(1653年)に完成させた翌年には現在の光雲(てるも)神社の参道沿いに火災にあった源光院を建てなおし3代将軍家光の慰霊碑(いれいひ)を置きました。
この源光院ですが現在は空地ですが、明治元年(1868年)明治新政府は「浦上四番崩れ」といわれる幕府最後のキリシタン弾圧により、逮捕されていた長崎県の浦上村の信者たちを各藩預けとしており、福岡藩では山口藩への移送者達を、廃寺となっていた源光院を急ぎ改造した獄舎に収容しました。
実際に送られてきたのは、明治2年12月で。翌3年の4月に山口藩へ移されています。
この間、寒い季節だったので、過酷な状況を耐えられず死人もでたと記録があります。
また、明治3年(1870年)福岡藩による太政官札贋造事件(だじょうかんさつがんぞうじけん)が発覚したおり、贋札(にせさつ)の製造にかかわった職人たちが、翌4年7月に判決が下りるまで、この獄舎に収容されていました。
この福岡藩とは、今の福岡県のことですからね。 驚き、モモノキ、車引きです
贋金を造るどんな事情あったのでしょうね?
福岡藩の贋金事件は別の動画で詳しくご紹介させていただきます。
このように黒田忠之によって建てられた荒津山の東照宮には参詣に来る村民が増えてきました。、
そして、明治時代に入り荒津山を公園にしようと荒津山付近の住民有志が、荒津山の一部を公園とする許可を得たのが明治14年(1881年)11月でした。
翌年はさらに山上を追加拡張して公園掛かりを設けてその管理にあたるようになったのが西公園の始まりです。
同時に1400円(企業物価指数で試算した場合、明治40年の1000円は現在では150万円前後でしょうか?あるいはもっとかも知れませんが)ほどのお金を集めて、荒れ地を開拓し、鐘美亭(しょうびてい)という会合所と荒津神社を新設しました。
明治21年11月、福岡県は接続する官地をすべて公園に組み入れ、福岡全町及び西新町をこの公園の維持区域とする通達を出して、70余名の世話人を置いて、公園の緑を保護する風致公園としての保存維持にあたらせたそうです。
明治22年(1889年)さくら425本、もも100本、カイドウ50本を植えています。市は愛勝会という団体に管理させ、市の代理機関にあたる市参事会に監督させています。
その後、道路の改修、石段の築造、石門の建設、貴賓の接待所「舞鶴館(ぶがくかん)」など設備がほぼ完備したのは、明治30年(1897年)でした。
明治33年には県の直轄となり、県の経済で維持する県公園となり、明治42年には丘の上に光雲(てるも)神社が建てられました。
この続きは動画で編集しています。西公園及び周辺の風景もご紹介しています。