福岡市には新天町や、川端通り商店街、唐人町商店街、美野島商店街など等。昔から地元の人に愛され、支えられている商店街があります。そして今回紹介する上呉服町(旧魚の町)にある日本最古の商店街があるのをご存知ですか?
博多駅から大博通り沿いを10分ほど歩けば、明治、大正、昭和の初めまで博多の商都として賑わった呉服町です。
呉服町は明治通りを挟んで下呉服町、中呉服町、上呉服町に分かれますが、博多駅寄りが上呉服町になります。
上呉服町入口にご覧のように電柱に「日本最古の商店」と案内された看板があります。
え~まじか?と思って、昔の資料をあれこれ探しましが、見あたりません。
この通りは「西門通り」と言って、聖福寺の西門にあたるところから西門通りと名がついています。
この商店街は旧町名が「魚之町」です。
海や川に近いことから、魚商人、舟乗りが住んでいたのが丁目の由来となったそうです。
昔からの商店が散在するが、日本最古の商店街の面影はない
通りの道幅は昔のままで狭く、古民家を改良した商店はあるものの、ビジネス街になった色が濃くて、他の商店街と比べ物にならないほど、買い物客は歩いていません。
魚町の歴史
博多の南部を東西に横断する主要道路で、魚町流の中心の町でした。袖の湊時代はその南岸にあり、1655年から1658年までの明暦 ( めいれき)、1658年から1661年までの万治 ( まんじ ) のころまでは、浦々から魚や塩を持ってきて、ここで取引していたので、町名となった。
袖の湊が埋もれて、入り海の用をなさなくなったので、この町の問屋は古渓町(こけいまち・今の奈良屋町)移っています。
幕末の頃は博多織の肥後屋、醤油、売薬雑貨問屋などの大店があり、鍛冶屋、米つき、小間物売りなどの町人も働いていたそうです。
大正3年(1914年)11月21日、中魚町の荒物商から出火し、全焼13戸、半焼5戸となり、大火事もあった。
空襲時には西側の一部が焼けただけで、あとは被害をまぬがれたので、戦前から居住者も多かったが。昔からの将軍地蔵があったが後に葛城地蔵に合祭されたとされています。
町名改正で上呉服町となり、中央を南北に貫く新道もできました。