福岡の近代化を語る上で石炭の存在は欠かせません。
福岡には、かって全国有数の炭坑だった、筑豊、大牟田や、粕屋、早良を含め大小の炭鉱がありました。
昔、石炭は「黒いダイヤ」と言われるほど、日本の経済にとって非常に重要なエネルギー資源だったのです。
筑豊や大牟田などの炭坑については、改めて別の動画を作成する予定です。
炭鉱の歴史を後世に伝えるため、国の重要文化財に指定され志免町にある竪坑櫓を中心に粕屋郡炭坑の歴史を振り返りながら、福岡の住みよい街ランキングでもベスト10に入る志免町を紹介します。
志免町の地名の由来
隣町の宇美町にある宇美八幡宮の祭礼の時に飾る「注連縄(しめなわ)」を、キドという土地で作ったことから、その場所が志免の地名となったとあります。
1889年(明治22年)4月1日 – 市町村制度発足(ほっそく)により、田富村・吉原村・志免村・南里村・別府村・御手洗村が合併し、志免村が発足し、1939年(昭和14年)4月17日 – 志免村が町制施行され、志免町となっています。
志免町の住居表示も年ごとに徐々に変わっていますが、一昔前はこの表示は大字(おおあざ)と小字(こあざ)で表示さされていましたが、現在では大字表記で昔の町名が紹介されていて、「田」や「水」「坪」といった農業地帯を意味する地名が多くあり、さらに細かく見れば、「塚(つか)・佛(ほとけ)・柩(ひつぎ)」の名が付く地名もあり、実際に亀山石棺(かめやませっかん)や、七夕池古墳(たなばたいけこふん)などが発掘されています。
また、サッカーJリーグのアビスパ福岡のメインスタジアムである博多の森という総合運動公園に近い、志免町南里には王子八幡宮・竈門神社境内の由緒書きには、祭神が応神天皇とあり、神功皇后の御子である応仁天皇を祀った神社なのです。
ここに応神天皇が祀られている事が唐突なようですが、
神功皇后が辿った(たどった)出産へ道中の伝承を残す、
若八幡宮~日守神社~駕輿八幡宮(かよいはちまんぐう)からさらに宇美八幡宮へと続く
ルート上にあるのです。(駕輿八幡宮は、籠かきの人たちの住居跡と推定)
こうしてみれば、志免町はたいへんに古い歴史を持っていることがわかります。
志免町が最近クローズアップされたのが、志免町のシンボルタワー的な存在になっている国の重要文化財である志免鉱業所竪坑櫓の存在です。
志免鉱業所竪坑櫓
この竪坑櫓とは何かをご紹介します。
明治22年(1889)2月|大日本帝国憲法が発布(はっぷ)される前年から、飯塚、田川、大牟田などから海軍予備炭山開放の要求が地元から盛んに上がっていました。
海軍予備炭山(かいぐんよびたんざん)とは、一朝有事に備え海軍が軍艦の燃料として石炭採掘を制限していた物を言います。
中でも、粕屋南部の炭田は炭質が良くて海軍自身が開発したとされ、これが日本唯一の国営炭鉱と言われる歴史の始まりです。
明治23(1890年)年3月に海軍大臣西郷従道(つぐみち)は現在の須恵町の新原に新原(しんばる)炭坑管制を交付しました。(後に海軍燃料廠採炭部と変わります)
新原は当時粕屋郡須恵村の一大字で、明治22年(1889年)に最初の採掘が開始されました。(一杭いっつこう)。その後、二杭、三杭と杭口(こうこう)の開発が相次ぎ、次第に須恵村大字旅石へ、さらに、志免町へと採掘の重点が移行し志免鉱業所として採掘が進んでいきました。
産出されたのは無煙、高カロリーの上質な石炭で軍艦や軍需工場に運ばれていました。
こうした良質の石炭を増産するために建てられたのが、竪坑櫓です。
1943年に建てられた竪杭櫓は高さ47,6メートル、15階建てのビルに匹敵します。最上部には「東洋一」とも言われた千馬力の巻き揚げ機があり、地下430メートルの杭底まで鉱員を降ろし、石炭を地上に上げていました。
実際に、ゴンちゃんも竪坑櫓を見ていますが、威圧感が半端ないですね。
この竪坑櫓は、福岡市の東側に広がる糟屋炭田のほぼ中央(現在地)に所在していました。
だから、志免町のあちらこちらから、見ることができます。
櫓は、艦船用石炭及び海軍工場等で使用する工場用石炭の採掘施設として、第四海軍燃料廠(ねんりょうしょう)採鉱課(さいこうか)の計画及び設計に基づき、昭和16~18年にかけて建設されました。
竪坑櫓の設計者は海軍技術大佐の猪俣 昇(いのまたのぼる)という人で、ヨーロッパ視察中にドイツの最先端技術であるハンマーコップ型の竪坑櫓を目の当たりにし、これを参考にして設計したとあります、
戦後は運輸省門司鉄道局志免鉱業所長になった人です。
戦時中に物資不足にあえぐ日本であったにもかかわらず、イギリス製の鉄鋼をふんだんに用いた鉄筋コンクリート造で建設され、「海軍仕様」、「東洋一の竪坑」と謳われもしましたが、ここで働いていた人たちは生活のためとはいえ、過酷な労働を余儀なくさせられたのでしょうね。
この16年~18年というのは、戦争勝利に向けていけいけどんどんだったんでしょうね。
海軍として、大きなお金をかけて作ったと思います。
当時は、櫓の中で最も発達した形式で「塔櫓巻型(とうやぐらまきがた)」と言われ、「ワインディングタワー」と称されます。
石炭や労働者の運搬用のかごを昇降させる巻上機を櫓上部に設置する形式ですね。
また、日本における近代の鉄筋コンクリート構造物の中でも有数の高さを誇る高層構造物であり、近代の建設技術史上、非常に価値が高い文化財といわれています
このような巻き揚げ機を櫓内に収めていた竪杭櫓が現存するのはベルギー、中国、志免町の3ヶ所です。
この志免鉱業所は、一貫して国が経営してきた日本唯一の炭鉱であり、竪坑櫓は「櫓と巻き揚げ機の滑車、機械が一体となっているのが珍しいとされています。
【志免炭鉱の歴史】解体寸前から一転!土木遺産へ竪坑櫓の動画
竪坑櫓の歴史を動画にしました。よろしければ最後までご視聴ください。